インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記

植木でございます
ちょっと喉が枯れていますので、聞き苦しいところがあると思いますが、本当はすごく美声なんです。昔はボーイソプラノで、歌を歌っていると女性と間違えられたりしたものですが、今日は、聞き苦しくてすみません。
いま紹介がありましたように、私はもともと九州大学理学部で物理学を学んでいました。1970年から79年まで在籍していましたので、牧角先生とは多分どこかですれ違っていただろうし、お父様が生物学科の教授だったそうですかから、教養科目で生物学を取りましたので、ひょっとしたら受講したかもしれません 。そういうご縁で今回参りました。

学生時代に、実は鬱病になったことがありました。

それを乗り越えるきっかけが今紹介があった東京大学名巻教授の中村元先生の訳された原始仏典を読んだことでした。

中村先生は、“人間プッダ”の実像を探究されていて、仏教が目指したことは、「真の自己に目覚めること」「失われた自己の回復」であったということを書かれていました。

それを読んで、私も自分を回復することができ、鬱病を乗り越えることができたわけです。

 それをきっかけに仏教に興味を持ち、仏教学を独学で勉強しておりました。物理学のほうは、大学院まで学んでいましたが、私の部屋に来た友人たちが、物理学の本と仏教学の本が並んでいるのを見て、「お前は物理学科だろう。何で仏教書を読んでいるんだ」とよく尋ねられました。何度も答えるのが面倒くさくなって、「僕にとって”ぶつり”の”ぶつ”は、”物”ではなくて、”仏”と書くんだ」といったら、非常にうけまして。以来、それを使っていま。

 社会人になってからも、独学で仏教学を学び続けていましたが、やっぱり独学には限界があるんですね。三十代後半になって、どうしてもインドの言語、原典から当たらないと納得できないことが多々ありました。中国語に漢訳されて、さらに日本で解釈が施されていて、二次的、三次的資料では納得できないところが出てきました。どうしてもサンスクリット語を勉強しなければいけないと思っていたところで、先ほどの中村元先生と出会いました。「うちに来なさい」ということで、中村先生の創設された東方学院で、中村先生から毎週三時間レクチャーを受けるという幸運に恵まれました。そこで、これまで積もりに積もっていた疑問が次々に氷解していきました。それが嬉しくて、中村先生に「ここに来てよかったと思います」と言いました。そしてさらに、「もっと早く来れば良かった」と余計なことを言ったんです。

 すると、中村先生は毅然とした表情で「植木さん、それは違いますよ。人生において遅いとか、早いとかということはございませ。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」とおっしゃったんです。

私は、中村先生の下でサンスクリット語を四十歳から学び始めました。

サンスクリット語は、世界で最も難解な言語です。フラ ンス語も動詞の活用が百個くらいあって大変でしょう。でもサンスクリット語はそれ以上なんです名詞・形容詞には八つの格変化がありますし、単数、複数に加えて、両数まであります。細かく厳密に規定されていて、面食らいます。それを四十歳から始めるというと、皆から「学生時代に習った英語やドイツ語をやり直すというならわかるけど、ゼロからだろう?やめとけ、不可能だ」と言われました。でも、必要に迫られれば、何とかなるものですね。

 その時、支えになったのが、「人生において遅いとか、早いとかということはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」という中村先生の言葉でした。その言葉に支えられて、今日まで挫折することなくやってくることができました。

 中村先生の講義では、最前列の席で細大漏らさずノートに取ることを心掛けていました。受講し始めて六年目の1998年に中村先生から指示がありました。「植木さん博士号を取りなさい」と。「えっ、僕は、物理学なんですが」「いや、それがいいんです。仏教学しかやっていない人には見えないものがあります。他のことを学んでこられたからこそ気づけることがあります。植木さんが仏教学をやることによって、仏教学の可能性は大きく開けるでしょう」とおっしゃったんです。

 でも、博士論文をどこに出すかが問題です。九州大学の卒業だから、理学部と文学部の違いはあるけれども、同じ九州大学のよしみで受け取ってくれるだろうと思って電話しましたが、体よく門前払いされました。また、ある私立大学の先生で、「私が紹介者になりましょう」という人が現れました。ところが、それも駄目でした。その先生が原稿用紙千三百枚分の論文三セットを入れた紙袋を抱えて私の住んでいる所まで来られて、「ごめん!私の力不足で駄目だった」と、泣きながら土下座して謝られるんです。申し訳なくて、これは何とか笑顔で帰さないと申し訳ないと思いました。それで、口から出まかせに「お茶の水女子大学に出そうと思っています」と言ったんです。

 これは半分は出まかせでした。どうしてかと言うと、実はその頃、王敏さんという、現在、法政大学の教授をされている方が、宮沢賢治の研究をされていたんです。宮沢賢治といえば法華経です。ところが文化大革命の世代ですから、仏教のことをあまりご存じない。日本ペンクラプの会員同士ということで、私に相談があり、法華経についてアドバイスをすることがあって、その論文をお茶の水女子大学に提出された頃だったのです。

 「中国の大学を出ているのに、お茶大に論文が出せるんだ。そんなことができるんだ」ということが頭にあったものですから、口から出まかせにそう言いました。すると、その先生は「お茶の水?うちの大学よりずっといい。飲め、飲め」といって、もうワイワイはしゃいで、いい気分になってお帰りになりました。

 それからしばらくして、その王敏さんから電話があり、「お茶の水で博士号を取れることになりました、学位授与式に来てください」ということで行きました。それは、2000年12月25日、クリスマスの日でした。お茶大の一室で授与式があって、一番後ろの席に座って参加していました。終了後、佐藤保学長に紹介され、「仏教のジェンダー平等の研究をしています」と言ったんです。すると、「えっ、ジェンダー!お茶大は、日本で最初にジェンダー研究所ができた所です。うちに論文を出しなさい」とおっしゃったんです。私は、「えっ、男でもいいんですか?」と言ったら、「在籍はできません」と言われました。本当は在籍したかったんですけど……。

 「在籍はできませんが、論文提出はできます。もしもあなたが博士号を取ったら、男性で六人目、人文科学に限れば、あなたが第一号になります」と言われまして、「おーっ、第一号、いいなあ」というので、頑張りました。論文を出して、いろいろと指導、教示を受けて、それが無事に通ったわけです。

 学位授与式では、修士課程を終えた人が四十人くらい、博士号取得者が二人でした。ぜんぶ女子大生です。その中に五十歳の私がぽつんと、緑一点でした。女子大生の中にぽつんとおじさん一人、それは気持ちがいいものでした。

 その論文が岩波書店から、『仏教のなかの男女観・・・原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の研究』として出版されました。今年の十月には、その本が講談社学術文庫から『差別の超克・・・原始仏教と法華経の人間観』と改題して出版されました。定価が岩波書店で七千円、学術文庫に入ったら千五百二十円になりました。多くの人に読んでもらいたかったので、安価になって喜んています。

 このように博士論文のテーマは仏教のジェンダー平等思想としました。それはなぜかというと、1990年代に入って、仏教は女性差別の宗教だと決めつける論文や著書が相次いで出版されていたからです。「それは一面的な見方でおかしいでしょう。ある部分を見ればそう言えるところもあるけれど、インドの釈尊のなまの言葉に近いところに遡れば違いますよ」という思いが込み上げてきました。これは反論を書かなければという思いでそのタイトルにしたわけです。

 歴史的人物としての釈尊の思想が、差別思想だったのかどうかを検証するために、漢訳とか日本語で書かれた文献だけではなくて、サンスクリット語やパーリ語で書かれたものが残っていれば、すぺて自分で翻訳して論文を書くことにしました。

 法華経も当然、サンスクリット語から自分で訳しました。ところが、岩波文庫の『法華経』のサンスクリット語からの現代語訳と比べてみたら、五百力所近く私の訳と違っていました。初めは、四十歳からサンスクリットを始めたばかりの私が間違っているんだろうと思っていました。ところが、文法書や、辞典、シンタックスの本を調ぺれば調ぺるほど、私の方が正しいとしか思えなくなってきました。筑波大学名誉教授の三枝充應先生に相談したら、「あなたの納得のいく訳を出しなさい」と言われました。それで、八年がかりで全訳したのが、『梵漢和対照、現代語訳、法華経』上下巻(岩波書店)だったわけです。

 ただ、維摩経のサンスクリット語写本はもはや存在しないだろうと言われていたので、チベット語訳と漢訳を使いました。ところが、お茶大で論文審査が進んでいる最中に、1999年にチベットで発見されていたことが報道されました。それも、法華経の翻訳に続いて三年がかりで翻訳しました。このようにインドの言語から両書を翻訳してみて、いろいろ気づくことがございました。

 そこから法華経の研究が始まりました。その中で、和辻哲郎の法華経研究の本を読んでいて驚きました。

 そこに何が書いてあったかというと、和辻哲郎が、『義経記』・・・南北朝時代から室町時代初期に成立したといわれる牛若丸、源義経の軍記物語を読んで驚いたというんです。牛若丸というと、皆さんがご存じなのは、五条大橋で武蔵坊弁慶と戦って、弁慶が家来になった・・・という話でしょう。その部分は同じだけれども、それ以外のことが書いてあったというのです。あと一本で千本の刀が集められるというので弁慶が橋の袂で待ち受けている。そこへ牛若丸がやってくる。しかし、一晩目は逃げられる。二晩目は、今度は清水坂で待っていて、刀で駄目だったから薙刀(なぎなた)で挑みかかったけれども、それでもかわされた。

 牛若丸は近くの観音堂へ入り込む。それを追っかけて行ったら、そこでお経を読んでいる人が大勢いた。それは法華経であった。大勢の中で、牛若丸は女性の被り物を着ているから、どこにいるかわからない。弁慶は後ろから一人ひとりドンとつついて牛若丸を探し回る。見つけたら、牛若丸が持っていた経典を奪い取って、横に座って、一緒に法華経を怒嗚るように大きな声で読み合った。二人は、ある程度の章を読み終えたら外へ出て決闘をする。そこで打ち負かされた弁慶は牛若丸の家来になるという話です。そこに、法華経を読誦するという場面が、長々と書いてあったというんです。それを読んで、和辻哲郎は「自分は大学で教育を受けたけれども、文学は学んだけれども、法華経というものがいかに日本文学に影靱を与えていたかということを全く知らなかった」というようなことを、法華経研究の冒頭に書いていたわけです。

 私も、それを読みまして、いろいろ調ぺていくことになりました。まず仏教伝来が五三八年で六―一年から六一五年の間に聖徳太子が三経義疏(さんぎょうぎしょ)を書きます法華経と維摩経と勝名経(しょうまんきょう)の三つの経典の注釈書です

<参考情報>

・法華経の経文では

⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。

⇒ところが「法華義疏」では

⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。

聖徳太子は、」と「を区別する考えはなく、

世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている

ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる。

■ 聖徳太子が行った経典の解説書:法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

「法華経」現実生活を肯定し、意義づける経典であると考えられていた

⇒この経典を選んだということは、

世俗生活を肯定する聖徳太子の基本的立場からは当然の帰結であったのである

・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方

⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、

治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある

一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない

どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので

山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない

聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである

こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。

「法華経」の精神はここにあるのだと思って(行基)

⇒「法華経をわが得しことは薪伐(たぎりこり)菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌を詠んだが、

⇒実は「法華経」の中にこういうエピソードがある。

⇒過去世に釈尊が行者としてある仙人のもとに仕えて、

菜を摘んできたり、水を運んだり、薪を伐って運んだりして奉仕したという。

すると行基は人に対して奉仕するという、ここに法華経の神髄があると思ったのである

⇒本当に行基菩薩が作った歌かどうかわからないが、昔からそう伝えられている。

⇒日蓮も、ああ、ここに「法華経」の精神が有ると感激した。これが現代にいたるまでずっと生きているのである。

仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)

「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説)した姿勢

太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり

人間が生きていくうえの倫理の指針として、

また統治の根本原理として

仏教を採択したのである

⇒したがって仏教の理想は

⇒僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、

社会的な実践課題でなければならなかった

「維摩経」の「第三章 弟子」に注して

「山としてかくれなければならない山はなく、世として避けなければならない世はない。・・・

汝らは、彼此といった差別の心から、世俗を捨てて山にかくれ、かえって身心を迷いの世界に現している」といい、

仏教の実践は

世俗てき生活の中にあることを強調している

現実(世俗)に対する積極的な働きかけという日本仏教の特徴的性格は

すでに仏教受容の初期段階で胚胎(はいたい)していたのである

出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記

 その内の二つを私が、サンスクリット語から翻訳していますが、その意義は大きいのではないかなあと自讃しています。誰かが「勝霊経も翻訳してください」と言いましたが、勝宴経のサンスクリット語写本は見つかっていないので、それは現時点ではできません。

 聖武天皇の時代になると、国分寺、あるいは国分尼寺が造られます。国分尼寺は、「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と言われましたそこでは、当然『法華経』が講義されていました。さらに、『更級日記(さらしなにっき)』を平安中期の菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が書きました。そこに、少女の頃、『源氏物語』を読みながらうたたねをして、夢の中に「いと清げなる僧」が現れて、「法華経第五の巻を、急いで読みなさい」と言われたと記されています。第五の巻には提婆達多品第十二(だいばだったぽん)が含まれていて、そこには龍女(りゅうによ)という八歳の女性が成仏する場面が描かれています。このように、奈良、平安の時代から、法華経といえば女人成仏が明かされた経典として重視されていたということが読み取れます。

<参考情報>

2025年4月22日 上総国分尼寺跡 訪問

 あるいは、源氏物語』を読むと、宮廷で法華経を読誦・講讃する法会(ほうえ)が行われていますそれを法華八講(ほっけはっこう)といいます。法華経が八巻ありますから、一巻ずつ場所を変えて講義が行なわれたわけです。それは光源氏もやっています。

 あるいは、伝承文学の中でも『日本霊異記(にほんりょういき)』とか、『法華験記(ほっけげんき)』とか、法華経信仰に関する説話文学がたくさん作られます。西行法師も、法華経をテーマとした和歌をたくさん詠んでいます。『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の大半が、法華経に関することを詠んだものです。

 あるいは中学、高校の美術の教科書を思い出してほしいのですが、そこには狩野派の狩野永徳とか狩野元信などの絵が掲載されていました。あるいは、「舟橋蒔絵硯箱」の本阿弥光悦、「風神雷神図」の俵屋宗達、「紅白梅図」の尾形光琳、「八橋図」の尾形乾山、「松林図」の長谷川等伯・・・これらはみな、法華衆であり法華経を信仰していた人たちです

 歌人や俳人では松永貞徳、宝井其角、山本春正といった人たち、松尾芭蕉もそうなんです。日蓮聖人が亡くなったのは十月十三日で、その前日にお逮夜法要(たいやほうよう)が行なわれます。芭蕉は、毎年その法要に参加していたようです。しかも、松尾芭蕉が亡くなったのが十月十二日で、奇しくもお逮夜法要が行なわれる日なんです。ですから弟子たちは、松尾芭蕉の追善法要を行なうのを、日蓮聖人のお逮夜法要に便乗して、池上本門寺で毎年やっていたということも記録に残っています。そういったことを挙げただけでも仏教、なかんずく法華経が日本文学や芸術にどれほど影響を与えていたかということを垣間見ることができると思います。和辻哲郎が驚いたというのも当然のことです。

<参考情報>

2019年1月4日 建仁寺 参拝

2024年5月23日 智積院 参拝

 法華経や維摩経をサンスクリット語から現代語訳し、日本文学への影密を考えていて、2014年6月に現代詩人会のH氏賞授賞式での記念講演を頼まれました。現代詩人会は日本最大の詩人の集まりで、H氏賞というのは、”詩人の芥川賞“と言われているものです。講演のテーマを何にするかと考えて、経典の内容の大半が詩()になっていることを思い出しました

 釈尊のなまの言葉に近い原始仏典はすぺて詩からなっていますということは、お釈迦さまは詩人だったということになる。それで、そのことを話しましょうかと言ったら常務理事の山本十四尾さんが喜ばれて、「お釈迦さまは詩人であった」というタイトルに決めました。ところが、当日になって、会場で登壇しますと、目の前に一色真理さんだとか、新川和江さんだとか、日本を代表する詩人がずらっと並んでいらっしゃるんです。それで、「あっ、タイトルを変更させてください」と言って、「お釈迦さま詩人であった」 にしたんです。すると、詩人の皆さんが喜ばれました。「お釈迦さま、俺たちの仲間だったんだ」と。

 そこで話したことは、インドでは詩が非常に愛好されているということです。例えば宗教書は当然なのですが、法律書や、医学書や、数学、政治学、経済学、科学の書物も韻文で書かれていたんです『マヌ法典』というインドで二世紀ごろに成文化された法律書があります。この条文を見ますと、ぜんぶ韻文です。その形式は、八音節からなる句が四個の計三十二音節で一つの偈(一偈)をなします。三十一文字の短歌に一文字足りないくらいの分量ですね。これが、一つの詩の単位です。長い詩だと、三十二音節を重ねていって長い詩を作るわけです。後世になってくると、散文も付け足されるようになります。まずは散文で表現し、同じような表現をもう一回、詩で繰り返すという形式が、経典として定着します

 最初期の原始仏典は詩だけ、韻文だけで書かれていました例えば、『ウダーナ・ヴァルガ』という原始仏典があります。中村先生の訳では『感興(かんきょうのことば』となっています。その中に、次のような詩があります。

 怨みに対するに怨みをもってするならば、その怨みは永遠になくなることはない

 怨みに対するに怨みをもってしないことが、怨みをなくすることである。それは永遠の理法である

こういった言葉が、三十二音節の詩で綴られているわけです。

 第二次大戦後、スリランカは日本に賠償金を請求する権利があったんですが、この詩を読んで、「われわれは、『怨みに対するに怨みをもってすることはありません。だから、日本に賠償請求はいたしません」と言って賠償金を請求することを辞退しました。

 若い人たちは、ご存じないかもしれません。私たちにとってスリランカは恩のある国なのです。そのことを忘れてはならないと思います。このようなことを、お釈迦さまは感極まって口にしていた。それが語り継がれたのがもともとの経典であった。後世になってさらに散文で解説的な文章を書き足していったそして文字化された・・・というのが、経典成立の背景だったわけです。

 現代詩人会でそういう話をして、その翌年、インド大使館の講堂で2015年7月11日に日印文学祭というのがありました。インドから来日された六人の詩人と学者、そして日本の学者とのシンポジウムです。そこで私は、「日本文学に見る大乗仏教の影響」というテーマで話をいたしました。

 その冒頭で、「世界で最も抽象名詞の多い、言語はなんだと思いますか」と問いかけたんです。皆さんご存じないかと思いますが、サンスクリット語なんです。ドイツ語を学んでおられる方が聞いたら、「いや、ドイツ語だろう」とおっしゃるかもしれません。「フライハイト」(Freiheit)のように形容詞のfrei(自由な)にheitという語尾をつければ「自由」という抽象名詞になります。でも、これは形容詞に限られていますよね。サンスクリットの場合は、名詞であれ、形容詞であれ、副詞であれ、いう語尾を付ければ抽象名詞になるんです。だからサンスクリット語の辞典を見ますと、形容詞や、名詞や、副詞の単語の後ろに必ず「~」という語が出てくるんです。名詞、形容詞、副詞の数だけ抽象名詞があることになります。だから世界で最も抽象名詞の多い言語はサンスクリット語なんです。

 例えば、śuklaという単語があります。これは「白い」という意味です。それにを付ければśuklaとなります。日本語の適切な訳がないので、私は「白性(しろせい)」と訳しておきます。これがどういうふうに使われるかといえば、例えば日本語では、「この紙は白い」と言います。英語でも、 This paper is whiteですね。ドイツ語でも、フランス語でも似たような、「主語十be動詞十補語主語」で表現すると思います。ほとんどの世界の言語ではそのような文章構造で表現されます。ところが、サンスクリット語では、ちょっと違った表現が用いられます。インド人は「この紙は白性を持つ」という表現を好むんです。「この紙は白い」と言えば、その紙に「白い」という現象を見ています。ところが、「この紙は白性を持つ」というのは、現象として白を見ているけれども、それが白であるのは、それを白たらしめているものが背後にあってその結果、白く見えるのだというのです。

 わかりますか?、インド人の頭の構造は、日本人と違うんですインド人は、目の前にある物事そのものに囚われないんですそこにある物事の背後にあるものを見ているんです。それを表現するために抽象名詞が必要だったんです白という現象があれば、その白を白たらしめているものが背後にあるこの花が花であるというのは、花たらしめているものが背後にある・・・というように現象を見ているのではなくて、その現象をそうあらしめている普遍的な真理といったものを見ているという特徴があると言えると思います

 そういったものの見方ですから、ものに囚われない。普遍性と抽象性を重視する、だからインド人はいち早くゼロを発見することができたわけです。数というのは、りんごが何個とか、羊が何頭とか、ものに即して数を認識しますよね

 ところがインド人はものに即しないんですものから離れて、一、二、三・・・という数字そのものが独り歩きするんです。そして、その数をもてあそんで、三より一少ないのは二だ、二より一少ないのは一だ 、では一より一少ないのは何だ?というふうにして、ゼロという概念がすぐ出てくるんです。りんごが一個、二個、三個と 、ものに即して数をとらえている人たちからゼロという概念は出てきにくいと思います。

 そこへ持ってきて、位取りを発明したのもインド人でしょう。一の位、十の位、百の位、千の位・・・。この方法で行けば、ゼロを次々と書き足していけば巨大数が簡単にできるでしょう。ゼロを何個足してもいいわけです。だから、巨大数がインドでは簡単に思いつくんです

 例えば阿僧祇(あそうぎ)という数があります。聞いたことがありますか。数学の教科書に、巨大数を列挙した中に書いてあるものもあります。これは、一説に十の五十九乗(1059)・・・ゼロが五十九個つく数字です。サンスクリット語のアサンキャ(asaṅkhyā)、またはサンキェーヤ(asaṅkheyā)の音を漢字で当てたものです。そんな数は、皆さんの日常生活で必要ですか? 必要ないでしょう。こんな数は、身の回りにある物事にとらわれず、物事の背後にある普遍性・抽象性を見ているインド人のものの見方だったからこそ思い付くことができたわけです。

 十の五十九乗という数をどのようなところで必要とするかと言えば、現代天文学ぐらいです。我々の住む銀河系に存在するすべての原子の数が計算されています。物理学科出身らしいことも少しは言わないとまずいですね。実は、十の六十六乗(1066)個なんです。それに匹敵するような数を、今から二千年前にインド人は考えていたんです。そのすごさは、ローマ数字と比べればわかると思います。ローマ数字というのは1(Ⅰ)と、5(Ⅴ)と、10(Ⅹ)と、50(L)と、100(C)、500(D)、1000(M)・・・この七つの記号しかないのです。この記号では、三千九百九十九までしか表現できません。でも、それで十分だったんです。羊を三千九百頭も持っている人は、ざらにいません。それだけの数の表現で十分です。日常生活はそれで事足りたんでしょう。十の五十九乗などという数を、生活のどこで使うんだと言っても、使う場面なんてありません。インド人の大好きな空想の世界でしか使うところはありません。

 さらに漢数字を考えても、漢数字は、一、十、百、千、万・・・中国の古代においては、万までしか数はなかったようです。私は、専門ではないんですけれども。古代においては万で終わりだった。ところが必要に迫られて、億とか、兆とか、京(けい)とか、核(がい)・・・といった数が追加されていった。でも、この表現では、数を示すその文字がある数までしか表現できません

 1059の場合は、サンスクリットのasaṅkheyā阿僧祇:あそうぎ)と音写したことで漢字表記できるようになっていますけれども、1066という数を一文字で表す文字は中国にはないと思います。

 ものに即して考えた人たちは、ゼロも、巨大数も思いつかないだろうし、表現する手立てもないというような違いが出てきますそれはやっぱり、ものに即してものごとを考えない、現象の背後にあるものを見ていくという国民性というか、インド人の思考方法のなせる業だと思います

 インド人のものの見方として、もう一つ、「一つの現象を絶対化しない」ということが挙げられます。

 その逆の例として、エジプト人がメソポタミアに来てビックリした話を紹介します。エジプト人は、生まれた時から、ナイル川を見て育ちます。そのナイル川を見て、川というものは南から北に流れるものだ思って育った。ところが、メソポタミアにやって来て、チグリス川、ユーフラテス川を見た。その川は、北から南に流れていた。そこで、「エーッ、川が北から南に流れていている!」とビックリしたという話しです。

 こで言えることは、―つの現象を見て、それが全てだと思ってしまっていた。だから、他の現象を見てビックリしてしまったということですね。

 ところがインド人は、―つの現象を見ても、これをone of themとしか見ないわけです。そういう特徴があります。だからインドの古代においては、歴史書がないし、地理書もないんです。―つの歴史的な出来事も、「それは偶然そうなっただけであって、たくさん可能性がある中の一っにしかすぎない、我々は、そんな一現象に興味はないその背後にある普遍的な真理のほうに興味があるんだ」・・・というので、歴史書や、地理書を残さなかったわけです。だから、未だにお釈迦さんがいつ生まれたのかということは特定できない。議論が百出しています。そのかわり、ギリシャ人と中国人は、記録癖がある。だからギリシャ人と中国人が書き残したものを手がかりにして、お釈迦さんが誕生したのはこの頃だ、亡くなったのはこの頃だというのを推定するしかないわけです。

 そのように、インド人は普遍性を探究する目の前にあるものごと、現象、事物そのものには典味がないその背後にある普遍性を見るという特徴があるということをご理解いただければいいかと思います

 インド哲学において重要な概念は、ダルマ(dharma)と言っていいかと思います。ダルマには、①習慣、②義務、③社会秩序、④善を行い、⑤真理、⑥宗教的義務、⑦法則、⑧教え、⑨本質、⑩事物、ものごと・・・など極めて多義的です。

 それは、中国で」と漢訳されました。これが複数形になると、「諸法」と漢訳されて、「あらゆるものごと」「あらゆる事物」という意味になります

 このdharmaにという接尾辞をつけると女性の抽象名詞になります。ダルマ(dharma)が「法」、ダルマター(dharma)が「法(ほつしょう)」と漢訳されました。

 「法を法たらしめるもの」、先ほどは、「白を白たらしめるもの 」という意味でした こ の場 合 は 、 「法の本性」 「現象を現象たらしめるもの 」という意味になります。

 西域の出身で中国にやって来て、サンスクリットの仏典を漢訳した名翻訳家、天才的な翻訳家がいます。鳩磨羅什 (くまらじゅう:クマーラ・ ジーヴ ァ )といいます。この人が、そのdharma を「諸法実相」と漢訳しました 。「諸法」というのは、「あらゆるものごと」。その「あらゆるものごと」の背後にある真 実 の在り方」というのが 「実相」ということです。 その翻訳語が、般若経や法華経という経典に出てまいりますけれども、その言葉があるように、インドでは 「現象としてのものごと 」「諸法 」 (dharma) よりも 、「ものごとをそうあらしめている、その背後にある実在」、即ち「 実相」、あるいは 「法」 ( dharma) を見ようという傾向が強かった

 漢学を学ばれている方には、「法」が本質的が表層的なものという思いが強いと思いますそれは、仏教においても基本的には正しいことです。

ところが、中国で「法」と漢訳された「ダルマ 」という言葉は、既に述ぺたように幅広い意味を持っていて、「真理」「事物」「現象」というようにこの 一語に本質面と表層面の両極端の意味が含まれています。だから、中国語本来の意味する「法」に比べて、 「ダルマ 」の翻訳語としての「法」の意味することには、多くのはみ出している部分があるということに注意しなければなりません諸法」というように複数形になった時は、「あらゆる現象事物」という表層的な意味のほうが強くなります

この「諸法実相ということが、実は、日本文学、日本の芸術論に多大な影態を与えたという話を今からいたします

 平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人で藤原俊成(しゅんぜい)という人がいました。藤原定家(ていか)のお父さんです 。京都の冷泉家(れいぜいけ )は、その流れをくむ家系です。そこに俊成による 『古来風鉢抄 (こらいふうていしょう)』という和歌論が残されています。 その冒頭に次の 言葉が出てきます。

 歌のふかきみちを申すも、空仮中の 三諦に似たるによりて、かよはしてしるし申すなり。

 聞いたこともないようなちょっと難しい言葉が出てきて申し訳ありません 。 こ こ は 、「うたのふかきみち」、歌の深い道はどうあるべきか、ということを語っているんですが、

 ここに「中の三諦」という言葉があります。これは中国の天台大師智顛(ちぎ)の用いた言葉です。これは法華経方便品(ほうぺんぼん)で「諸法実相」を存在論と因果論の視点から論じた「十如是(じゅうにょぜ)という考え方から展開されたものですから、諸法実相の別表現です (詳細は、拙著『江戸 の大詩人章を 参 照 )。だから 、「諸法実相」と置き換えてもかまいません。内容的には同じことです。

そこで 、「諸法」と「実相」の関係はどうなるかと言え ば 、「諸法」そのものが「実相」ではない 。目に見えている現象、その現象そのものが「実相」ではない 。けれども 、「実相」というものは、「諸法」を通じて現れてくる。例えば「氷山の一角」という言葉がありますが、氷山の一角 、その水面から出ている部分だけを見て、それが全体だと考えるのは間違いですね。けれども、その水面下にもっと大きな氷の塊があるということを認識して、氷山の一角を見る場合は違いますよね。

 その両方を踏まえるということが、「諸法実相」 という意味になってくるわけですが、その考えを、藤原俊成は和歌論に当てはめたわけです。諸法と実相の両方を見極めて、そのいずれか 一方に偏ることなく、諸法に即して実相を見るその実相を、諸法を通して表現するというような形で、和歌論を展開したわけです。

<参考情報>

<参考情報:Google chrome AI回答>

三諦(さんだい)

天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します

  • 空諦::一切のものは実体がない、空であるという真理です。
  • 仮諦::一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
  • 中諦::空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。

天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます

<参考情報:仮名/天台智顗(ちぎ)の教学>

 この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となるこのように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理であるこの論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。

 時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~

例えば、桜を愛で、月を眺め、風を感じ、現象 ・事物としての花鳥風月を歌に 詠みこみます。 そこに詠み込むのは、”も の “で す。現象です。三十 一文字 に ”も の “とか現象を羅列するわけです。言葉自体も「諸法」です。けれども 、 ”も の “とか現象としてのものごとをそこに羅列しながら、それで終わりじゃなく、そういったものを通じて、その背後にある実在、即ち実相を表現しようとするところに 「歌のふかきみち」があるんだ、というようなことを藤原俊成は言ったわけです。

 室町時代の連歌師で、 宗祇(そうぎ)という人がいました 。その人は、次のように言いました。

 歌の道は只慈悲を心にかけて、紅栄黄落を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覚真如(ほんがくしんにょ)の道理に帰す可(べ)<候(そうろう)

 木の葉が紅く染まって栄華の盛りを極め、あるいは黄色くなって落葉する。そういった自然現象を通して、あらゆるものが生死ー生まれては死に生まれては死にを繰り返している、という道理を達観する。それによって万物を貫く、本来あるがままの真実に即した道理が達観されてくる、というようなことを言ったわけです。だからそこにも、「諸法実相」という考え方が貫かれているのではないかと思います。

その「諸法実相」というものの見方が、日本文学でどのように反映されているのかという例を松尾芭蕉の作品に見ることができます。芭蕉の代表的な作品と言えば次の旬でしょう。

古池や 蛙飛び込む 水の音

 ここには 、「古池」「蛙」「水の音」といった”もの“ という名前を羅列してあるだけです。私は、俳句をたしなむような風しろうと流な人間ではございません。詩人でもなんでもございません。ど素人の私の考えを、恥を承知で今から述ぺます。私がここにいて、古池が向こうにある。そのほとりに蛙がいる。その蛙が、水の中にポチャンと飛び込んだ 。すると 、その水面が波紋を描いて広がっていった。さらにはそのボチャンという音が音波となって私の耳に届いて、さらに私を通り過ぎて後方に広がっていって、宇宙大の広がりを感じさせるんてすね。そこに「古池 」「蛙」「水の音」という”もの“を並べることによって、宇宙の広がりの中に私が居るー ‘という思いを私は感じます。

それは 、”もの“という諸法を羅列することによって宇宙の広がりの中に居る私、という実相を表現しているんではないかという気がいたします

 その違いは、松尾芭蕉とほぽ同時代の俳人である小林 一茶の俳句と比ぺるとよくわかると思います。例えば、次の句が有名です。

痩せがえる蛙負けるな一茶これにあり

我と来て遊べや親のない雀

やれ打つな蠅が手をする足をする

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

 幾ら並ぺても、ここに 宇宙の広がりや、実相は感じられません 。ここには、生き物に対する優しさは満ちあふれています。けれども実相というものはほとんど感じられません。それはもう松尾芭蕉の句に比べれば格段の違いがあるんじゃないかと思います。

その松尾芭蕉の俳諧論をまとめた人たちがいます。各務支考(かがみしこう)という人です。この人は『俳諧十論』を書いています。その中に法華経を要として」と前置きして、この『俳諧十論』をまとめたというのです。あるいは 『虚実論』と いう本も書いていまして、「実を以て方便の門を開き」とあります。これは法華経の方便品第 二という、第 二章の言葉を踏まえてこの『虚実論』を書いたということです。そこには 、

虚に居て実をおこなふぺし。実に居て虚にあそぶぺからず。

とあります。すなわち、虚構によって真実を表現するべきであって、その逆であってはならない、というような意味です。ここでいう虚構(フィクション)と真実(ノンフィクション)という比較は、これはある意味では、「諸法」と「実相 」の関係に置き換えられるような気がします。

聖徳太子の言葉 に 、「世間は虚仮(こけ)なり」というのがあります。

 世間とは、現象の世界です。それを「虚仮」、すなわち虚にして仮であると言っております。それと同様に諸法も虚であり仮であるということができます。

そのによってを表現していくということと通じているんじゃないかと思います。松尾芭蕉は『奥の細道』を書きましたけれども、それはフィクション化されています

 それに対して、曽良が書いた『曽良旅日記』のほうは、事実をありのままに、そのまま書いています。けれども面白くも何ともない 。記録でしかない。

松尾芭蕉はフィクション化して、なかったことをあったかのように創作しながら、 書き加えたりしています。その結果、非常に客観的で優美な永遠の旅人の世界を表現することに成功しています。それは 、虚に居て実を表現するということの芭蕉自身による実践だったと思います。だから 、「虚実論」というのは、ある意味では、「諸法実相論の応用ではないかというふうに思います


あるいは近松門左衛門という人がいます。 この人は 『虚実皮膜論』という芸術論を書きました 。 それは、次の言葉で表されています。

芸といふもの は実と虚との皮膜の間にあるものなり。〔中略〕虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有るもの也。(『難波土産』)

芸といふものは、実と虚とのうすーい皮膜を隔てたところにあるものである。事実を事実のまま書いたって何も面白くなし、そこに虚というものを織り交ぜながら表現することによって、 実というものが際立ってきて、感動が深まってくるー ー ーというような意味だろうと思います。

これも 「諸法実相論」の応用であると考えることができるのではないかと思います。「虚実皮膜論」 という文字を見ると、私は、日蓮聖人が書いた『観心本尊抄』の「竹膜を隔つ」という言葉を思い出します。近松は、おそらくこの 言葉を知っていたんじゃないかと思います。なんでかというと、近松門左衛門も日蓮宗の信徒だったようですから、『観心本尊抄』も読んでいたでしょうし、その言葉が頭にあって、こういう表現をしたんじゃないかと思います。

そういった話をインド大使館でしたわけです。すると 、インドの詩人や学者たちが非常に驚きまして、えっ、 日本の短歌や俳句はインドにルーツがあったのか!とビックリされたんです。

 それで、国際啄木学会インド支部の支部長さんで、博士号を持っておられるウニタ ・サチダナンドさんが、 「タゴールは、短歌 ・俳句について 『われわれに最も近い詩だ』と評していました 」 ということを教えてくれたんです。 タゴールが日本に来て、俳句や短歌について知りました 。その時に抱いた印象が、 「われわれに最も近い詩である」ということだった 。 それを聞いて、私も、 「それはそうでしょう。精神的ルーツはインドであり、 諸法実相なんだから」 という話をサチダナンドさんにいたしました 。 そういう話をして い た ら 、 インドの団長さんが私のところに来まして、「あなたの英語の論文、あなたの英語の原稿が欲しい 」ということで持って帰られました 。相当に興味を示されたようでした。

 本当はこういう話で終わろうと思っていたのですが、実は、先ほど牧角先生が紹介してくださったこの『 江戸の大詩人元政上人京都深草で育んだ詩心と仏教』(中公叢書)という本が、一昨日発売になりました 。本当は、もっと先の出版になるかと思っていたのですが、早まりました 。佐藤先生からこの講演の依頼があったのは七月頃でした 。その時はまだ原稿を書いている最中だったんです。これは年を越しそうだなと思っていました。ところがテンポが速まりまして、九月に原稿が出来上がって、中央公論新社の編集者に見せたら 、「これ、うちから出しましょう」ということになった 。しかも 、「今年が、没後三百五十年!じゃあ、今年中に出しましょう」ということで、本日の講演の二日前、十二月二十日発売と決まった 。その九月から十二月二十日まで 、もう大慌てで仕上げたんです。

 その元政上人の話もついでにしちゃえ、ということで今から話します。元政上人という名前は、聞いたこともない方がほとんどだと思います。明治時代、大正時代、昭和の初期くらいまでは有名な人だったんです。どういう人かというと、一六六八年に四十六歳で亡くなっています。早死にです。京都の武家に生まれて、彦根藩に仕えます。お姉さんが 二代目の藩主の側室になり、その子供が三代藩主となりました 。そういう家柄の人です。 この方が十九歳で病気になって、仕事を辞めて出家し、法華経の研究だとか、文学作品なんかを遺していくんですが、ものすごい読書家で、漢詩を千五百編遺しています。短歌も分かっているだけで二百五十首遺っています。それが超一流なもので、「江戸時代随一の詩人」というふうに江戸時代末期の人が評していました。「西の元政、東の芭蕉」と言われた人です。少年時代から 『源氏物語」を読んでいた 。

この人が、北村季吟、あるいは熊沢蕃山に『源氏物語』をレクチャーしていました 。そのレクチャーを受けた北村季吟は 、『源氏物語湖月抄 』を書きました。『源氏物語湖月抄 』をもとにした注釈書『源氏物語新釈』を賀茂真淵が書くわけです。それで、与謝野晶子が『湖月抄』をもとに我が国初の『源氏物語』の和訳を出しました。折口信夫が『源氏物語湖月抄』をもとに慶應大学で『源氏物語』を講義しました 。その『湖月抄』をまとめる背景には、元政上人が 『源氏物語』全編を北村季吟にレクチャーしたということがあったわけです

元政上人は、長生きしていれば、『源氏物語』を漢訳して中国に伝えようと思っていました 。その翻訳には、班固(はんこ)の『漢書』 や司馬遷の 『史記』 の文体を用いようということまで考えていたのですが、いかんせん若死にだったものですから、それはかないませんでした。

その元政上人の詩歌論の 一端を紹介します。ちょっと難しい 言葉が出てきてすみません。

 我が奢摩他(しゃまた)・毘鉢舎那(びばしゃな)を除きて、 以て我が志を見る可(べ)く、 以て我が情を見る可き者は、た惟だ詩のみ。

 ここに「奢摩他」 とあるのは、サンスクリット語のśmathaを音写したもので「心の動揺をとどめて本源の真理に住びばしゃなすること 」で 、「」 と漢訳されました 。 「心をとどめる」 という意味です。「毘鉢舎那」というのは、サンスクリット語のvipaśyanāの音写で、その本源の真理に住して「事物をありのままに観察すること」で 、「」と漢訳されました。 「止」と「観」を合わせて「止観」とな り 、「心をとどめ、精神集中して、ありのままにものごとを見る」ということです。 その 「止観」 の在り方について中国の天台大師がまとめた ものが 『摩詞止観 になります。

以上のことを踏まえて、現代語訳すると、「心の動揺をとどめて本源の 真理に住すること(=)、また、本源の真理に住して、事物をありのままに正しく観察すること( =)。この二 つを除いて、自分の意志や感情をありのままに観察させてくれるものは、詩以外には存在しないということになります。 ですから、この元政上人が詩を詠むということは、自らの心を一点に集中して、ものごとをありのままに見ていく、諸法の実相を極めていくということを意味していることになります。

 また、元政上人は日記に次のように記しています。

 「詩歌の道をよくすれば、即ち(じょう)(え)の 二法を修するなり。 二法を具すること、詩歌の 一致なり」

 」というのは、仏道修行の基本である 「戒・の三学 」 に含まれる二つです。悪いことをすれば、不安に駆られたりして心が不安定になり、精神集中もできなくなって智慧も開けない 。だから、仏道修行において、 ①「戒学」=戒律を護持して悪をなさず、 善を修して心を制すること、② 「定学」=精神を集中して心を散乱させない禅定を修めること 、 ③「慧学」 =智慧を修め、煩悩の惑を破って、ものごとの 真実の姿を明らかに見極めることの 三学が必須の修行項目とされていました。

そこにおいて元政上人は、「定学」と「 慧学」の二つに通じるものとして、詩歌の道を探究していたということです。詩歌を詠むことをこのようにとらえていた元政上人にとって、自己の内面世界をいかに表現するかということが重要なことであったのでしょう。「方寸の心を吐く」、すなわち、一寸四方のちっぼけな心の思いを言葉として表現することが詩なんだと言っていました 。その際に大事なことは 、 「文字(言葉 )、平易を要す」で、わかりやすいということを心がけた

 そのような考えを持っていた元政上人に、どういう詩があるのか、見てみましょう。私は元政上人の評伝を書き な が ら 、漢詩 の解説も自分なりに書いていました 。その中で私が 一 番感動した詩を紹介します。 日豊上人という師が江戸の池上本門寺に貫主(かんず)として招かれました 。ところが、元政上人には、八十代、七十代の両親がいて、京都を離れるわけにはいかない。京都に残ります。独り立ちすることになり、京都の深草という伏見稲荷よりちょっと南の方に、隠棲するわけです。 それが三十三歳の晩秋でした。間もなく年が明けるというような時に、独り立ちした 。そうやって年が明けた春に詠んだのが次の詩です。独り立ちしてまだ数力月の時です。

 簡単に現代語訳すると、新居に引っ越したけれども当時はメールもありませんし、引っ越し通知のはがきもありません 。だから誰にも知らせていない 。新居のことは誰も知らない 。訪ねてくるのは、春だけが、たまたまやってくるだけである托鉢で得た食べ物を食べた後に鉢を洗っていると、泉の水がぬるんできたのを覚えて、春が来たのを感じる。「径を転じて日の遅きことを試みる」。ここは多くの本では 「経を転じて 」となっています。江戸時代に出版されたものもそうなっています。 「経を転じる」とは、お経を読むことです。ところが、僧侶にとってお経を読むのは日課でしょう。そこには「遅きことを試む」とあります。試みるというのはトライすることで、 日頃やっていないことをやるといういとへんぎょうにんぺんことでしょう。だ か ら 、「経を読んで試みる」というのは不自然です。 これは、糸偏ではなくて、行人偏の間違いではないでしょうか。私は 、「径を転じて日の遅きことを試みる 」に改めました 。 日頃通っている道を変えて、ちょっと遠回りしてみた 。けれどもまだ日が明るい 。日が長くなってきたのを試みたとしたほうが自然ではないでしょうか。

また、たなびく雲、靄のような雲が、ひっそりとした私の住居を包み込んでいる。芳しい草花がまばらな垣根に芽を出し始めた。松や竹は寒さの中でも青々として色褪せることなく、自らのあるべき所を得て、その存在感を示している。林や丘に 雪が溶ける時がやってきたのだなあという解釈です。

 「松竹其の所を得たり」という一節を私は、松や竹が自らのあるぺき所を得て存在感を示しているというように理解しました 。そうとらえると、この詩は庵周辺の情景描写であるとともに、師匠と別れて独り立ちして深草 に住み始めたばかりの上人自身の心象風景でもあると読めます。独り立ちの心細さから、身心に自信がみなぎってきている詩ではないでしょうか。心の底からじわーっと力強さがこみ上げてくる。元気を喚起するのは、アニマル浜口さんの 「 気合いだ、気合いだ !」の十連発というやり方もあるかもしれませんが、私はこの詩を読んでいるほうが、心に力強さが満ちてきます。もう一っ、時空を超えた ”私“を詠った元政上人の詩を見てみましょう。「桃の花」という詩があります。

桃の花が、私が住んでいる谷の入り口に咲いている。ウグイスが、花の枝でさえずっている。花はものを言わないけれども、ものを言わずして多くを語るという妙を発揮している。鳥は文字のないさえずりによって詩を吟じている。この谷は静かであるけれど、天地は広々としていて、私は宇宙大に広がっているようだ 。春の 一日というのは、どうしてこのように時間が経つのが遅いのであろうか。悠久の時間と、宇宙大の空間の中に私はいるようだ 。私は、ただボーッと空を見て 、雲が徐々に消えていくのを見ている。最 近 、NHKのテレビで五歳の女の子に「ボー ッと生きてんじゃねーよ」と叱られるという番組が評判になっていますが、ボーッとしているのもいいものだと私は思います。元政上人も、時間が経つのも忘れて、ボーッとしておられたんだと思います。

目を下に転ずると、「水は流れてやむこと無し」で、水は瞬間瞬間に絶えず流れ続けている。けれども 、 その水の流れ全体は、様相を全く変えることがない 。瞬間、瞬間、絶えず水が入れ替わりながら、そこに 一定の姿を留めている

次の「花影、落霞(らっか)の晩」を、ある方は 「花の影が地面に映って・・」と解釈された方がいるんですが、これも物理学 の出身者から言わせてもらうと、違うのではないかと思います。真昼の直射日光であれば、地面に影が映りますが、 日が落ちて夕焼けで真っ赤に染まった西の空の光で影はできないのではないでしょうか。これは、シルエットととるべきでしょう。夕焼け空に、花の影がシルエットとなって 黒 い影を映している。 そっちのほうが詩的でしょう。 それで、やっと日が暮れてしまったので帰ろうと思って水際に立ち上がったという詩です。

 これを読んでいると、花とか鳥とか、谷、春、雲、水、夕焼けという ”もの や現象が並ぺられています。でも 、そこに広大で悠久の 宇宙の 中にいる ”私“を詠い上げているという思いがいたします
これも「諸法」という「あらゆるものごと」によって実相を表現する 、「諸法実相」の理念の漢詩への応用と見ることができるのではないかと思いました 。あるいは、変化相 諸法 )のなかに永遠相実相)を見た元政上人の 詩もあります。それが次の 「偶作」という短い詩

水月橋のあたりに天の月が水に映っている。秋が深まって空気が澄んでいるから、鮮やかな月の光が反射していたということでしょう。そ れ で 、「水光月色」、水に映った月の光も、空にある月の色も、水は、瞬間瞬間絶えず流れている。けれども 、ともに悠久の時間を表している。我が心は水のようでもあり、また月のようでもある。月は水の流れに影を落として、水の流れの表面に光を映している。そのその月の光の影は流れることはない 。水は、瞬間、瞬間、入れかわり立ちかわりして変化している。けれどもそこに月の光は変わることなく存在し続けている。それはちょうど、私の心にいろんな心の思いが 去来する 。けれども私の心は、変わることなく存り続けている 私は私である ーー — というようなことを詠んでいるような気がいたします。

これを読んだ後にいろいろな人の言葉 について考えました。まずヘラクレイトス、これはギリシャの哲人ですね。 そ の人は「万物は流転する」と言いました 。似ています。 元政上人も、変化相を見ています。「万物は流転する」ということと同じようなことを言 っているけれども、その 一方で、元政上人は不変のものも見ています。ヘラクレイトスは不変のものを見ていない 。変化するということしか見ていません。

 日本でも、無常を描いた作品として鴨長明の『方丈記」が挙げられます。 その冒頭は、次の一節で始まります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

これを高校時代に丸暗記させられました。ここに無常観が表れていると習 いました 。ところが、これをよくよく読んでみると、少し違和感を覚えます。松岡正剛さんという人がいます。「知の巨人」と言われているようです。この人は『千夜千冊』で、鴨長明のことを 「失意の人」、あるいは 「典型的な挫折者」「内田魯庵のいう ”理想負け“ 」「山口昌男のいう”敗け組“」などと評しています。堀田善衛さんは 、 「アキラメ主義 」 (『方丈記私記』)と言っていて、厳しい評価をくだしています。

この鴨長明という人は、京都の下鴨神社の禰宜(ねぎ)の息子です。神職としての将来を約束されていたんですが、途中でそれがボツになります。それでふてくされて方丈を建てて、そこに隠棲するわけです。 だから、この人が 書いている 、この「ゆく河の流れは… ・:」は、本当は愚痴みたいなものです。所詮 この世には、頼りになるもの、あてになるものはないんだ、物事は変化しているんだと嘆いているんです。

 2011年の東日本大厖災の時、この『方丈記』を読もうという話が出てきました。 ある人 は 、「なんであんなのを読ませるんだ」と、批判する人がいました。「あれは、諦めさせる本だろう」と。確かに 、 『方丈記』の書かれた頃に大震災があったのは事実です。そこだけは同じだが、「諦めろというのか」と言って、怒っていらっしゃる方がいらっしゃいました 。だから、この鴨長明の「ムジョウカン」というのは、「カン 」の字が違うんです。 「無常」 ではなく 、無常」と改めるべきです移りゆくものを見て、「はかなさ」を詠嘆して、嘆くのみです

 それに対して、元政上人の場合は、「観察」の「」の「無常」です。「」は、既に触れた「毘鉢舎那」(vipaśyanā)のことで、無常を見極めるということです。変化相(諸法)のなかに永遠相 (実相)を観て、悠久の思いに立つということです。「無常」と「無常は、似ているようで全く違います。 そういったことを、この「偶作」という詩を読んだ後に考えました 。

 この「偶作」という詩 で も 、「桃の花」という詩でも、水の流れによって変化相と永遠相を表現することが行なわれています。それに関連して、「ダルマ 」「法」という言葉について触れておきます。

 「ダルマ(dharma) は、既に述ぺたように「真理」「教え」「道理」「道 徳 」「正 義 」「 事物」などを意味するインド哲学において重要なキーワードです。中国で「法」と漢訳されました 。私は最初の頃、この「法」という文字を見て、「水」を意味するサンズイに「去」と書いてある。 そうか、川の流れは水が常に流れ「去」りながら、川の様相が変わることなく保たれている。 そのことを「法」という文字 で表したんだと考えていたんです。

 ところが、これは” 美しい誤解“でした 。

 中国文学者 の藤堂 明保さんの解説によると、サンズイに馬と鹿に似た珍獣の 廌(たい) という字を書き、その下に「去」 という字を組み合わせて「灋ほう という字が作られたという。馬と鹿に似た 「廌」という動物が、ある島にいる間は何ごともなく暮らしているが、その島から抜け出そうとして水の中に入った途端、いろんな制約があって、傷めつけられたりする。そこから、出ちゃいけないということを表わしている人が踏み外してはならない規則ということを意味しているという。このようにして「」という漢字ができたと藤堂明保さんが書いていると、中村元先生から教えて頂きました

 ところが、インドに行ってガンジス河で船に乗りました。水量が豊かで沿々と流れているんです。 ヒマラヤの頂上の 雪解け水を集めて、数千キロメートルもの河の流れがあります。そのガンジス河のことを、サンスクリット語で、「ガンガー」( gaṅgā) といいます。 こ れ は 、「ガム」 (gam) と「ガー」 (gā ) の複合語です。gamは 、「行く」という意味の動詞の語根で、英語のgoに当たります。Let ‘s goの goで す。 サンスクリット語は、インド ・ヨーロッパ 語族ですから、英語とルーツが同じなんです。gaは、動詞の語根の gamから造られた形容詞 gaの女性形です。動詞の語根と、それから造られた形容詞の複合語は、動詞の意味を強調した名詞 (形容詞) になります。 だからガンガーは 、「行き行くもの 」「沿々と流れ行くもの 」 という意味になります。 ところが、中国でこのガンガーが 「恒河(ごうが)」と音写 されました 。「 恒 (つね)なる河」です。

サンスクリ ット語の意味は「消々と流れ行くもの 」、漢訳語の意味は 恒なる河 両方を合わせると、滔々と流れ行きながら、その様相は変わることのない「 恒なる河」 だとなります。 こうなると、先ほどの私の” 美しい誤解“も捨てたものではないと思えてきます。先ほどの 「偶作」の詩で表現されていたことも、似たようなことを言っていました 。中国人が 、「恒河」と音写したのは、そういう意識を持っていたのでしょうか。

 最後に、元政上人の「諸法実相」についての見解を見てみましょう。元政上人の書物の中に、「諸法実相」について言及した所がございます。現代語訳して引用します。

 三十 一文字の言葉によって宇宙の始まりにまでさかのぽり、目に見える事物によって、目には見えないものごとの根源の真理(実際理地)を表現する。

それが和歌だと論じています。 これも 「諸法実相」ということの表現を変えただけですね

 諸法の実相というものは、実相自体に言葉や姿 ・形はないけれども仮に言葉や姿 ・形を求め 、言葉や論理の及ばないものであるけれども仮に言葉や論理を用いて、執着心を離れる決断力をもって進みゆくならば、必ず実相という究極の真理に自分が達することができるし他者をも到達させることができるのである


 と述べて、「我が詩を読まば、亦是の観を作せ 」と 、「 諸 法 実相」という見方で私の 詩を読みなさいとも語っていました 。

 言葉も「諸法」の ―つ であって 、「 実相」を語るには限界がある。けれども「実相」はその言葉 によって表現するしかない。

 限界があるけれども、言葉という「諸法」によって表現するのが、歌であり詩であると語っておりました 。大急ぎで話してきましたが、最後にまとめますと、

 藤原俊成は、「歌のふかきみち」として空 ・仮 ・中 の 三諦、すなわち「諸法実相」をもとに歌論をまとめました 。

 元政上人も、天台大師と議論する夢を見るほど天台三大部を読み込んで、「諸法実相」 の法理を自らのものとして歌を詠んだ。

 松尾芭蕉も近松門左衛門も、「諸法実相」 の思想に基づいて文学作品を仕上げた 。

 このように日本文学においては、「 諸法実相」というインド仏教の独自の考え方が反映されてきたのではないかということで、話を終わりたいと思います。

追記 =講演から三カ月程して、人文学会事務局の伊豆原潤星さんからメールをいただいた。 一九八四年の第4 9回人文学会のパンフレットが出てきて、中村元先生が記念講演をされていたという。そのタイトルが何と、「日本文学に及ぽしたインド思想の影響」 で、「勝手に植木先生とのご縁を感じた次第です」とあった 。その講演の記録が存在しないということは残念ではあるが、私も不思議な思いにかられている。

<参考情報>

◆「法華経」

・「維摩経」とほぼ同時代の第一期大乗経典の成立期(1~2世紀)に成ったと推定されている

⇒この経典は、サンスクリット語本・漢訳本・チベット語訳本のほか、さまざまな国語に翻訳され、

⇒仏教を信仰するアジア全域に流布されているが、とくにシナと日本では、絶大な尊崇を得た。

⇒シナでは鳩摩羅什の漢訳「妙法蓮華経」が著名だが、鳩摩羅什ととも経典翻訳に加わった道生(どうしょう)は、注釈書「妙法蓮華経」を著した。光宅寺法雲は道生の解釈をうけついで、「法華経義記」をしるしたが、

隋代の天台智顗(ちぎ:538年~598年)にいたると、「法華経を根幹として壮大な理論体系を作り上げられた

この天台法華哲学が最澄(767年~822年)によって日本にもたらされ、比叡山に日本天台宗が開かれた。

⇒叡山は日本における学問・真理探究の聖地となり、「法華経」を中心に代表的な仏教の諸思想を結集し、集約して、仏教哲学としていよいよ特性を発揮するようになった。

これを天台本覚(ほんがく)思想と呼び、

平安時代の宗教・思想のみならず、文学・絵画等、文化の各ジャンルに深い影響を及ぼした

⇒鎌倉新仏教の祖師たちも、みな叡山で天台法華思想、本覚思想を学んだが、

⇒とりわけ日蓮と道元は「法華経」に強い関心をしめした。

⇒日蓮(1222年~1282年)は「法華経」の中の実践精神を重んじ、

⇒だび重なる弾圧と迫害を通じてしだいにその理想を実現するためには、

⇒世俗の政権との抗争をあえて辞せず、理想的世界の建設に力を注ぐようになる。

⇒日蓮にあっては「法華経」は世界観・人間観確立のための指針であるばかりなく、

⇒政治理念・政治的実践の方法論としても受けとめられるようになったといえよう。

⇒これは、後世の日蓮主義者にいたるまで見られる特徴である。

一方、道元(1200年~1253年)は大著「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」を著したが、

そこには経典としては法華経がもっとも多く引用されており

あたかも「法華経」の一大注釈書、ないしは法華理論の解説とも読みうる場合もある。

注)「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」:禅僧である道元が執筆した仏教思想書で、日本仏教史上で最高峰に位置し、難解さという点でも注目されている。

道元(曹洞宗の開祖)は、真理を正しく伝えたいという思いから、日本語かつ仮名で著述している。当時の仏教者の主著は漢文で書かれていた中で、異例の取組であった。

公安(禅問答)を中心に、禅の教えを詳細に説いており、悟りについて考える「現成公安」の巻

  1. 「現成」の意味:
    • 「現成」は「悟りの実現」を意味する。
    • つまり、悟りとは目の前に実現されていることを指す。
  2. 「公案」の意味:
    • 「公案」は元々は中国の公文書を指す言葉。
    • 禅宗では、「一人ひとりに与えられた禅の課題」として使われる。
    • 修行者はこの課題を通じて悟りに近づこうとする。
  3. 「現成公案」の内容:
    • この巻では、迷いや悟り、修行、生と死、仏と衆生など、すべての存在について説かれている。
    • 仏法は相対的な区別から離れたものであり、悟りは自己と自然が一体であることを理解すること。
  4. 要約:
    • 「現成公案」は、悟りを実現するための課題であり、自己と世界を理解するための鍵となる内容。

・法華経の経文では

⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。

⇒ところが「法華義疏」では

⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。

聖徳太子(574年~622年)は、「聖」と「俗」を区別する考えはなく

世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている

ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる

■ 聖徳太子が行った経典の解説書:法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

「法華経」現実生活を肯定し、意義づける経典であると考えられていた

⇒この経典を選んだということは、

世俗生活を肯定する聖徳太子の基本的立場からは当然の帰結であったのである

法華経とは、アジアの至る所で尊崇されている経典

⇒南アジアは伝統的保守的仏教の国、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)の国であるから違うが、

その他のネパール、チベット、蒙古、シナ、朝鮮、日本という国々では「法華経」は尊崇されている。

聖徳太子から始まり、最澄、日蓮、今日のいわゆる新興宗教とつながっている。

注)「法華経」

  1. 成立と特徴:
    • 大乗仏教の初期に成立した経典であり法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれている
    • 28章から成り立っており、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されています。
  2. 名前の意味:
    • 梵語での原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、「正しい・法・白蓮・経」という意味。
    • 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」とも訳される。
  3. 内容:
    • 法華経は、人々が平等に成仏できるという新しい仏教思想を説いている。
    • 菩薩(悟りへの修行者)や如来(悟りを得た人)の存在が描かれており、密教にも影響を与えた。

・これは何を頼りしているかというと

⇒ただひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、ここに日蓮の生命があると考えている。

⇒このように、「法華経」は現在に生きている教典である。

・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方

⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、

治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある

一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない

どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので

山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない

聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである

こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。

「法華経」の精神はここにあるのだと思って(行基)

⇒「法華経をわが得しことは薪伐(たぎりこり)菜摘み水汲み仕えてぞ得しという歌を詠んだが、

⇒実は「法華経」の中にこういうエピソードがある。

⇒過去世に釈尊が行者としてある仙人のもとに仕えて、

⇒菜を摘んできたり、水を運んだり、薪を伐って運んだりして奉仕したという。

すると行基は人に対して奉仕するという、ここに「法華経」の神髄があると思ったのである

⇒本当に行基菩薩が作った歌かどうかわからないが、昔からそう伝えられている。

⇒日蓮も、ああ、ここに「法華経」の精神が有ると感激した。これが現代にいたるまでずっと生きているのである。

出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記

注)行基菩薩(668年~749年)の社会事業例

  1. 交通整備と橋の建設:
    • 行基は弟子たちを率いて、交通の難所に橋を架け、堤を築き、道路を整備した。これにより交通の便を向上させ、人々の生活を助け、地域社会に大きな影響を与えました。
  2. 水利施設の整備:
    • 行基はため池や淡を造り、農耕灌漑施設を整備した。
  3. 宿泊収容施設「布施屋」の建設:
    • 使役夫(税として納められていた諸国の産物を都へ運ぶ労働者)が路傍で餓死する問題を解決するために、「布施屋」という宿泊施設を建てた。
  4. 全国津々浦々に寺院を建立:
    • 行基は機内だけでなく、全国に多くの寺を建てた。彼の布教活動は広範で、人々から「行基菩薩」と呼ばれた。
  5. 大仏造営と大僧正の位授与:
    • 東大寺の大仏造営に協力し、大仏造営費の勧進に起用された。その功績により、日本最初の大僧正の位を授けられた。

当時の国家仏教の規定により、寺や僧の行動を制限されており、民衆への直接的な仏教布教は禁止され、行基の社会事業は一部で禁止されていたこともあった。

朝廷からは「小僧行基」と名指しで布教活動を禁じられたこともあったが、彼はめげずに活動を続けた。行基の指導による墾田開発や社会事業の進展は、政府(国家権力)が恐れていた「反政府」的な意図を持っているわけでなく、地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったため、731年(天平3年)に禁圧が緩められた。

行基は法相宗に属し、法相宗(唯識宗)の開祖は、慈恩大師。彼は玄奘三蔵の弟子であり、玄奘三蔵が翻訳に注力した唯識の経典を託されたことからその注釈書を著して法相宗を開いた

尚、日本の法相宗の総本山は奈良県奈良市にある薬師寺

出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.htm

【隋時代(581年~618年)に生まれた天台宗】

天台宗の起源と発展

  • 創設者:天台宗は、智顗(ちぎ:538年~598年))によって創始された。智顗は天台山(浙江省天台県)に住み、そこで教えを広めた。
  • 教義:天台宗は『法華経』を根本経典とし五時八教や一心三観などの教義を発展させた。これにより、仏教の教えを体系的に整理し、多くの信徒を引き付けた。
  • 本尊:特定の本尊はない。一般に多くの寺院では釈迦牟尼仏(法華経に説かれるお釈迦様)を本尊としている。他に阿弥陀如来や薬師如来を本尊とする寺院もある。

天台宗の影響

  • 国家との関係:天台宗は隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)の帰依を受け、国家の庇護のもとで発展した。智顗(ちぎ)は天台山に国清寺を建立し、天台宗の中心地とした。
  • 文化的影響:天台宗は中国の仏教文化に大きな影響を与えた。特に、禅宗や華厳宗など他の仏教宗派にも影響を与え、その教義は広く受け入れられた。

<参考情報>

天台智顎(ちぎ:538年~598年)

真実の仏教を求めて – 天台宗を開く

天台大師は今から1400余年前に霊山天台山にこもられ『法華経』の精神と龍樹の教学に基づき 教理と実践の二門を兼備した総合的な仏教を確立され、新しい中国独自の仏教、真実の仏教である天台宗を開かれました。

隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、 わが国では高祖天台智者大師とお呼びし、篤く尊崇され、伝教大師(最澄)により伝えられた。

天台三大部

48歳の時、陳の皇帝に請われて天台山を下山、 金陵の名刹光宅寺で『法華経文句』を開講されました。 その後、陳は隋により滅ぼされ、首都金陵も戦場となります。 大師は戦乱を避け故郷の荊州に帰郷されました。 ここで玉泉寺を建立され、『法華玄義』と『摩訶止観』を 講説されました。これらは天台宗の聖典として弟子の章安灌頂により筆録され、天台三大部と称されています。

出典:http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/tendai/index.htm 三井寺

日本への伝播

  • 最澄の役割:日本では、平安時代に最澄(伝教大師:767年~822年)が唐に渡り、天台宗の教えを学んだ。帰国後、比叡山に延暦寺を建立し、日本における天台宗の基盤を築いた。

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO18258790Z20C17A6AA2P00/

※堂内は外陣と中陣、内陣に分かれる天台仏堂特有の形式をとる。僧侶が祈りをささげ、本尊の秘仏、薬師如来を安置する宮殿(くうでん)が置かれた石畳の内陣は、中陣より約3メートル低い。つまり中陣にいる一般参拝者と同じ高さに、本尊がある設計になっている。

同寺総務部の礒村良定主事は「天台宗では人間はだれでも仏になることができる、と説いている参拝者が見上げるのではなく、本尊と対等にすることでそれを表している」と話す。

天台宗は、中国仏教の中でも特に体系的で深遠な教義を持つ宗派として、歴史的に重要な位置を占めている。

<参考情報>

■空観思想(=中道:龍樹/ナーガールジュナ)を基盤にして

『天台思想』

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報:Google chrome AI回答>

三諦(さんだい)

天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します

  • 空諦:一切のものは実体がない、空であるという真理です。
  • 仮諦:一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
  • 中諦空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。

天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます

<参考情報>

概念戯論からの解放

 また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮にということばでものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「という表現そのものが究極(=勝義であるわけでもない、とも言います

 つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです

 とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠でそれを世俗真理世俗諦)とも呼びました

 もとより、事物に固有の本質はないがそこに固有の本質があるかのような錯覚はあるそれが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います

 ただし、空が正しく理解されるというのは錯覚を錯覚であると気づくことそれによって煩悩の根源に巣くう概念化戯論という心のはたらきから解放されることを意味しています

出典:サブタイトル/龍樹(ナーガールジュナ)~大乗仏教の基盤を整えた空観(=中道)/大乗仏教徒が安心して修行できる根拠をザックリ知る~中項目:■空とは何でしょう? ―中観派(ちゅうがんは)の教えを学ぶ/第16回 愛宕薬師フォーラム(東京大学教授 斎藤 明 先生)

空海の仏教総合学 その8 第七章 大乗の論理学を問う

出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-52.html エンサイクロメディア空海/空海論遊/長澤弘隆のページ

一、覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん)

 大乗のレベルの二番目、「出世間心」の第四段階で、具には中国・日本の三論宗、インドでは中観(ちゅうがん)派の中観思想である。

 インドの初期大乗仏教を代表する論師の龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)は、釈尊の「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」という縁起観(「此縁性(しえんしょう)縁起」)を敷衍し、」と「」を「」と「」に、あるいは「常見」と「断見」に、あるいはまた「同一」と「別異」や、「来る」と「去る」にと、対立的な二項の概念に置き換えた

 そして、その対立的な二項は片方がなければ別な片方もない互いに依存する相依相待(そうえそうたい)の関係にあって、片方だけで自ら実在するものではないとした(「相依性(そうえしょう)縁起」)

 龍樹によれば、いかなる存在や事象もこの相依性縁起生のものであるから、それ自体で自ら生滅をしない無自性であり、対立的な二項に執著せず、二項のどちらでもない真ん中中道をとることが大乗のの立場である

 唯識は、瞑想中に生じる認識世界での認識するもの(識)と認識されるもの(対象)の二項がともに自ら在る個体的な実在ではなく、「無自性」であって執著するべきではないと主張するが、龍樹は論理学的な方法で対立的な二項のどちらにも執著すべきでないことを明かした

 これは、小乗の説一切有部」などが「諸法」を「実有とし、此れあるが故に彼あり、此れ滅するが故に彼滅すの縁起観を実在論で固定化することへの批判であった

 覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん)」とは唯識でも「依他起性」を言うようにいかなる存在や事象も生滅をくり返しているが、それは「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」で、「此」「彼」の対立的二項の相依相待の関係で生滅していて存在や事象自らが独自に生滅しているのではない(「本不生」)、そのことを深く覚るのがこの心位である、という意味である

二、中観思想の要諦

(一)中観派が所依とする三つの論書

 中観派が所依とする論書に、中観思想のもとになった龍樹の『中論』(厳密には『根本中頌』)と『十二門論』、そして龍樹の弟子提婆(だいば、デーヴァ)の『百論』がある。これらを三論と言い、中国・日本ではインドの中観派を三論宗と言った。

(二)八不(はっぷ)中道

 『中論』に説かれる中観思想で、具には「不生不滅」・「不常不断」・「不一不異」・「不来不去(ふこ)」で、いかなる存在や事象も相依相待」の「相依性縁起によって生滅するもので、みな無自性」・「であるから

①「自ら生じるのでもなく(不生)」(生滅の否定)
②「自ら滅するのでもなく(不滅)」(生滅の否定)
③「常住不滅なもの(「我」(アートマン))があるわけでもなく(不常)」(「常見」の否定)
④「滅すれば二度と生じないのでもなく(不断)」(「断見」の否定)
⑤「主体とその主体のはたらきは同一でもなく(不一)」(主体とそのはたらきの否定)
⑥「主体とその主体のはたらきは別異でもなく(不異)」(主体とそのはたらきの否定)
⑦「来るのでもなく(不来)」(運動・移動の否定)
⑧「去るのでもない(不去)」(運動・移動の否定)
のである。

 この対立的な二項の両項を否定し真ん中を採る論理は、例えば「浄」と「不浄」、「長」と「短」、「業(ごう、カルマ)」と「作者」(宿業をつくる者)などによってのちに言及される。

(三)「(げ)

 これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は相依相待の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない無自性」・「であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで仮の名仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)に過ぎず、とらわれるべきではない

 また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは我見であり、虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ることであり、戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解となるだから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべてであり、)」であり、である。これを」と言うのである

 この「」を、「三諦(さんたい)」(三つの真理)と言って特別重視したのが天台であった

 中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して「次第三観」・「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と「円融(えんゆう)三諦」・「一心三観(いっしんさんがん)」を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。

 すなわち中論は、あらゆる存在や事象が無自性であることをの三の面から一元的に説いたのだが、慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである(「次第三観」・「隔歴三諦」)。

 それに対し、「三諦」を同時に観想し「一心三観(いっしんさんがん)」)、それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした

出典:サブタイトル/龍樹(ナーガールジュナ)~大乗仏教の基盤を整えた空観(=中道)/大乗仏教徒が安心して修行できる根拠をザックリ知る~

<参考情報>

■時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋しているところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

過去や未来がたとえ無であったとしてもその名前や概念が成立していること自体が重要であり

概念や名前、即ち仮名があることによって現在も把握できる、ということである

しかもそのような「仮名という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた現在だから、結局、その現在も空虚である、という論証の仕方である

同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。

つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである

これが龍樹の戯論という語の背後に隠れている仮名」の積極的意味であると思われる

つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学