■出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~ 一部抜粋
本書は最澄とその門流の動向を知るにはもってこいなのだが、「始原としての最澄」を語るには少し足りない。そこでもう一冊、最澄のダイナミックな端緒に戻った本を紹介しておく。昨年刊行されたばかりの師茂樹の『最澄と徳一』(岩波新書 2021)だ。刊行まもなく話題になった。最澄と徳一(とくいつ)のあいだで交わされた激越な論争を通して、最澄の仏教思想の背景にひろがる問題を見定めたものだ。
徳一は法相宗の学僧で、はやくから東国とくに会津に拠点を広げていた。ポレミックな学僧で、最澄に対しても空海に対しても論争を挑んだ。
最澄との論争は昔から「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)とよばれてきたもので、三乗説と一乗説のどちらが仮(=権)で、どちらが真(=実)なのかを決めようという論争をいう。三乗説の徳一がふっかけ、一乗説の最澄が受けて立った。論争は5年に及んだ。
なぜそんなことが平安初期の日本で争われるのかというと、『法華経』の読み方をどうするか、どこに注目するかということをめぐったのである。結果、三乗説と一乗説が対立した。なぜ、そうなるのか。話はインドまでさかのぼる。
紀元1世紀前後、ブッダ以来の数世紀にわたった原始仏教教団のいくつかの部派活動の中から、いわゆる大乗グループが登場した。大乗グループはそれまでの部派仏教時代の活動を「小乗」と貶称して、小さな乗りもの(乗=教法)に乗っている連中だとみなした。そのうえで大乗グループは小乗グループとの区別をあきらかにするため、新たな経典(大乗経典)をつくろうとしていた。
その手の試みはすでに般若経の編纂グループが先行していたのだが、それに続くもので、できれば決定版にしたい。『法華経』である。
ひるがえって、もとからの小乗グループは、仏教の教えを伝え導くことができるのはブッダただ一人、釈迦仏だけだと考えてきた。それゆえ修行者はブッダを理想のモデルとして、一人ひとりがさまざまな執着を断ち、輪廻から解脱するために阿羅漢(あらかん)をめざす。なかで、その境地にかなり近づいた者は菩薩、すなわちボーディサットヴァ(菩提薩埵、略して菩薩=悟りを求める人)と称ばれるところにまでは達するが、とはいえブッダになるわけではない。そう、考えてきた。
これに対して大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張した。菩薩もブッダをめざしつつ、自分だけではなく衆生(多くの他者)を悟りに導こうとしているのなら新たに「菩薩乗」とみるべきだと主張し、たんに教えを聞く修行者はブッダになろうとしていないのだし、自分だけの覚醒にこだわっているのだから「声聞乗」(しょうもんじょう)にすぎないとみなした。また、教えを聞くことなく独力で解脱をめざす者たちもふえてきたようだが、かれらは別して「縁覚乗」(えんがくじょう)などと称ばれるべきだとした。
こうして、修行者を教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」の見方ができあがっていったわけである。このうち声聞・縁覚乗を「二乗」とも名付け、大乗を進む者を「一乗」と名付けた。
大乗グループは、これらのことがブッダの語りによって展開されている経典が存在するべきだと考えて、かなり長い時間をかけて『法華経』を仕上げた。そこではブッダは「私が小乗や二乗の道があると説いたのは、大乗に導くための方便だった。本来の道は一乗なのだ」と語っているようにした。前半の迹門で二乗を重視しておきながら、後半の本門では一乗を重視させたのである。
<参考情報>
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩勧発品」。
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
出典:サブタイトル/梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~
大乗グループはその後も大乗経典のヴァージョンをいろいろ編纂し、しだいに大乗仏教という大きな仕組みをつくりあげた。アショーカ王やカニシカ王がこれを採用し、大乗仏教は菩薩乗を広げるムーブメントになっていった。
やがて時代がたって、大乗仏教にもいくつかの考え方の差異が出て、宗派がいくつも分立していくと、新たな問題が出来(しゅったい)してきた。いったい『法華経』に語られた「三乗は方便、一乗が本当」というメッセージは文字通り受け取っていいのかどうかということだ。とくに中国に入って経典が次から次へと漢訳されていったことで、解釈のちがいや混乱が錯綜した。
漢訳経典に混乱が出てきたのは致し方がなかった。インドでの経典成立の順に漢訳されたわけではないからだ。ただし混乱したままではまずい。どの経典を原型とみなし、どの経典がそれに続いたのかを判定する必要が出てきた。これを仏教史では「教相判釈」(きょうそうはんじゃく、略して教判)という。
竺道生や慧観による教判が試みられ、天台智顗の「五時八教」説でおよその流れが確立した。ブッダは「華厳→阿含→方等→般若→法華」という5段階で説いていったとみなすのがいい、それが仏教を最も深く理解していくのにふさわしい順番であるという説だ。これは歴史的な経典成立の順ではなく、仏説を理解する認識の順によるもので、そこがユニークだった。
智顗の五時八教説によって、『法華経』を学修するすべての信仰者が「法華一乗」になっていくというスコープが提出されたのである。智顗はそのように認識するためのベーシック・テキストにあたる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』も書いた。天台三大部だ。ここに天台法門が確立した。
この見方が日本にも踏襲され、最澄はこの説に従って日本の天台をまとめたいと決断した。法華一乗である。しかし法相宗では、それとは別に「五姓各別説」を唱えて、一乗でまとめるのではなく、あくまで三乗それぞれの悟りを追求するべきだとした。ここにおいて法相の徳一から「天台の法華一乗の解釈は納得できない」というクレームが投げかけられたのである。
論争のいきさつは猖獗をきわめるのでここでは省くけれど(師茂樹『最澄と徳一』を読まれたい)、最澄は徳一の掲げた疑問にかなり対応して、自身の天台教学の形成に与かった。それは、青年最澄が仏教に向かうにあたって発願した思いと一致するものだった。

「三乗が方便、一乗が本当」ということを説明する物語では、【一乗】は「大白牛車」(大きな白牛が引く牛車)によって喩えられる。この白牛はコブウシと考えられ、古い時代からインド周辺で神聖視されてきた。バビロニア南部のウルの遺跡の記録や、インダス文明の印章(図版)にもコブウシの姿が見える。

「五時」とは、教化方法などを判釈した順序に従って、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五期に分類したものである。「八教」は、理解の仕方で分類された「化儀の四教」と、教えの内容と対象を示した「化法の四教」を指す。例えば「化儀の四教」の「頓」は一瞬で理解することで、「漸」は段階を経ての理解にあたる。また「化法の四教」の「蔵」は、二乗(声聞と縁覚)の教えであり、「別」は菩薩乗の教えを示した。
最澄は近江の生まれである。琵琶湖のほとりの大津の古市郷、いまの生源寺のあたりに俗姓を三津首(みつのおびと)、俗名を広野として育った。
14歳(宝亀11年)で近江の大国師であった行表(ぎょうひょう)のもとで出家して、近江国分寺で得度、延暦4年4月に東大寺で具足戒を受けた。行表が器量の大きい人だったようだ。
木内さんは行表が最澄に示教したことは、ただひとつ「心を一乗に帰すべし」だったろうと書いている。そうではあったが、ただ具足戒が気になった。
仏教では本格的な僧尼になるためには、「自分は戒律を守ります」(持戒)という約束を果たさなければならず、そのための授戒を受けなければならない。「戒」(シーラ)は仏教三学の「戒・定・慧」の必須要件のひとつで、仏法に帰依する者の大前提のことだ。具足戒はその戒の中の小乗戒で、200項目ほどの規則が示されている。日本には請われて鑑真が具足戒をもたらし、東大寺にそのための戒壇院ができた。
最澄も授戒してもらったものの、小乗戒では満足できなかった。「一乗に帰すべし」がないように感じられたのだ。そこで授戒後の7月、意を決して比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅に励み、四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)のために『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をしるすべく「願文」を認(したた)めた。
これが名文だ。「悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患いて楽しからず」に始まり、「生けるとき善を作(な)さずんば、死するの日、獄のたきぎとならん」とあって、「我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ」と顧みる。出仮は現実の世界にはたらき出ることを言う。
このあと次のように決意を述べる。「願わくは、かならず、今生の無作無縁の四弘誓願(しぐせいがん)に引導せられて、周(あま)ねく法界を旋(めぐ)り、遍(あま)ねく六道に入り、仏国土を浄め衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さん」。
最澄は何を願ったのか。木内さんはこの願文はまさに「菩薩の発願」で、「法華一乗」に向かってすべての仏事を仕上げたいという決意に願いを懸けたのだと説明する。
なるほど、菩薩たらんとする決意ではあったが、たんに理念的な願文ではなかった。実践プランがいくつもあった。一切経(主要なすべての経典)を書写し、大乗戒のための戒壇をこしらえ、もっと天台法門を広く実践したい。そういう思いが募っていた。延暦7年(788)、最澄は山中に一乗止観院を建てると、自刻の薬師如来像を安置した。この一乗止観院を本堂とする寺院の総称が比叡山寺で、それが弘仁14年に延暦寺と改称された。

図版は『伝教大師絵伝』(延暦寺蔵)で、最澄が自刻の薬師如来像を一乗止観院に安置した様子が描かれている。
ここから先の最澄の活動は仏教知に対してのひたむきな渇望がすさまじい。この渇望が最澄の「菩薩の発願」を動かしてきたエンジンだったろうと思う。渇望は渇愛でもあった。とくに智顗がいた天台山への憧れはただならないもので、結局、このことが最澄を遣唐使船に乗せて入唐求法に至らしめた。
36歳で還学生に応募して2年後、苦難の末に入唐し、天台山に参って国清寺で灌頂を受け、台州の龍興寺では円教(完全円満の教え。天台宗では法華の教え)の大乗戒も受けた。さらに越州龍興寺の近くの鏡湖の峯山道場では三部三昧耶の密教灌頂を受けた。そして金字7巻の『法華経』をはじめとする経典、多くの典籍、密教法具を携えて戻ってきた。一番弟子の義真が求法訳語(通訳)として随行していた。
すばらしい入唐体験であったはずだが、不足不満もあきらかになってきた。最澄が受けた密教灌頂は「雑密(ぞうみつ)」のものにすぎず、別途に入唐していた空海が長安青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨から受けた「金胎両部の純密(じゅんみつ)」の灌頂ではなかったのである。こうして帰国後は空海との「本」と「灌頂」をめぐる交流が始まり、徳一との三一権実論争が続くことになったわけである。
空海との交流はしばらく続いたが、最澄が『理趣釈経』を借り受けたいと申し込み、これが断られたあたりから疎遠になっていった。当時は「本」そのものが認知哲学であり、その秘法であったのである。本の貸し借りこそ「懸命」なのである。『理趣釈経』が動かなかったこと、ここに天台密教と真言密教の分かれ目が生じた。
■梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~ 一部抜粋
理由ははっきりしている。大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になってきたからだ。
このことに関してはいまならいろいろのことが言えそうなのだが、それを今夜はとりあえず端的にいえば、法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタラリゼーションの意図を追いかけたいということ、このことに尽きている。
地湧の菩薩は法華経の15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たちをいう。ブッダが涅槃に入ったのち、その教えが伝わりにくくなり、その信仰の本来の意図の布教が躊めらわれていたとき、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだった。たいそう劇的なことには、この地湧の菩薩が出現してくる瞬間、法華経全巻がここで大きく転回していくのである。
この構成演出はすばらしい。それとともに、ここに菩薩の意味がついに明示されていた。かれらは「知っての通りの待機者」だったのだ。
お恥ずかしいことに、ぼくは長らく仏教における菩薩とは何者なのか、何を担っている者なのかということがわからなかった。なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。こんな宗教はほかには見当たらない。菩薩はエヴァンゲリオンではない。他者にひっこむものなのだ。凹部をもったものなのだ。
そういう謎が蟠っていたのだが、それを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だったのである。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場の“させかた”だったのだ。つまりはこれは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だったのである。

地涌の菩薩の一団の出現
(「法華経曼荼羅」第十四軸部分)
実際には菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になったのだ。
というふうには感じているのだが、まだこのことに関してはぼくの思索が現在進行形している途次なのである。
不軽大士(ふきょうだいし)ぞ あはれなる
我深敬汝(がじんきょうにょ)と唱へつつ
打ち罵り悪しき人も皆 救ひて羅漢と成しければ
一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩のほうは、法華経20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているのだが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。
植木さんはそこを、こう訳した。「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」というふうに。うーん、なるほど、なるほど、これならよくわかる。ネーミングの意図を汲み上げた訳になっている。そうであるのなら、この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになったのだ。フォン・ユクスキュル(735夜)ふうにいえば、その“抜き型”のトーンそのものになったのだ。
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)がこのような、比類なくアンビバレントな名前をもっていること自体も意味深長なのだが、そのうえでこの菩薩は何をするかというと、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く。そこがまたもっと不思議なのである。だいたい、そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。かえってみんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。それしかしない。そればかりする。

石を投げる人々に礼拝する常不軽菩薩
この常不軽菩薩のキャラクターが法華経全巻において燻し銀のごとく光るのだ。これは「愚」なのである。「忍」なのである。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場してきたのだった。それゆえ、ひっくりかえしていえば、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”だったのだ。
もしもドストエフスキー(950夜)やトーマス・マン(316夜)が常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)。
というわけで、ぼくはいま「地湧(じゆ)の菩薩」と「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」のあいだを行ったり来たりしているのだが、それはそれ、今夜はそろそろ法華経という構造がもっている本質的な編集構成の妙義について、以下、ちょっとだけのピクニックをしてみたい。
釈迦の誓ひぞ頼もしき 我等が滅後に法華経を
常に持(たも)たむ人は皆 仏(ほとけ)に成ること難(かた)からず
世界宗教としての仏教(ブッディズム)にはいくつもの特色があるが、そのひとつにキリスト教やイスラムなどの宗教では、教典はバイブル一冊やコーラン一冊に集約されているのに、仏教が多くの経典をもっていることがあげられる。俗に「八万四千の法門」という数だ。べらぼうだ。
ところが法華経は、そういう多種多様な経典を生み出した仏典のなかで、「万善同帰教」というふうにみなされてきた。「諸経の王」ともいわれてきた。すべてのブッディズムの教えはことごとく法華経に入っているという見方なのである。そう、法華経は思われてきた。
そもそも仏教は、ブッダ亡きあとに長い時間と多くの信仰者と人士をもって複合的に組み立てられた宗教システムである。当然、経典もさまざまな編集プロセスをもって成立していった。それゆえ、のちには「万善同帰教」とみなされた法華経もその出自からすると、もとより一筋縄ではありえない。
仏典結集(けつじゅう)の試みは、おそらくブッダ没後の直後からオラリティをもっておこなわれていた。きっと200年間ほどは口伝のままだったろう。だいたいブッダが喋っていたのはマガタ語というものなのだが、それがどんなものであるかは、さっぱりわかっていないのだ。それがしだいにリテラシーをともなって、紀元前250年前後のアショーカ王のころの第三結集に及んだ。ここで初めてサンスクリット語とブラフミー文字(アショーカ王碑文文字)が使われた。ほかにカローシュティー文字も使われた。
このことは決定的である。記録にのこるリテラルな文書性が交わされたことは、ついついリテラシーの対立を生み、それが思索の対立にもなったのだ。アショーカ王の時代、すでに仏教教団の内部や信仰者たちのあいだには議論や論争や対立がたえず、仏教活動は激しく分派していったのだ。ブッダの教えを守るのか教団の規律を重視するのかという、よくあるコンプライアンス問題による対立がきっかけで、大きくは伝統順守派の上座(じょうざ)部と時代適応派の大衆(だいしゅ)部に分かれた(=根本分裂)。
その対立部派が紀元前1世紀ころは20くらいの部派になって定着して(=枝末分裂)、いくつものアビダルマ(論書)が編集された。これを「部派仏教」(のちに小乗仏教と蔑称される)というのだが、それぞれのリテラル・ロジックはそれなりに強烈だった。ぼくもずいぶん惹かれた時期がある。
ただ、そうした部派仏教はもっぱら自己解脱をめざしていて、そのようになるために自己修行をし、自己思索を深めていくことを主眼としていたので、やがてそのような態度を批判する連中が出てきた。いや、乗りこえようとする動きが出てきた。
これが大乗のムーブメントである。そのムーブメントがもたらした大乗仏教のあらましは、大筋についての流れを1249夜の『大乗とは何か』にもふれておいたので省略するが、ここに般若経から法華経をへて浄土三部経におよぶ大乗経典の執筆編集がとりくまれたわけである。
そこで大乗ムーブメントの推進者たちは、かれらをひとまず「声聞」(しょうもん)と呼ぶことにして、そこからさらに解脱をめざしながらも独りごちしている者たちを「縁覚」(えんかく)として位置づけて、その二乗(声聞・縁覚のこと)をさらに開いて「利他行」に転じていった者を「菩薩」と位置づけることにした。
そのようにしたうえで、法華経の編者たちは大乗以前の考え方と大乗以降の考え方を、コンセプトにおいてもリプリゼンテーションの方法においても、うまくつなぐことを試みた。
法華にまします所には 諸仏神力拝みつつ
皆これ仏の菩提場 転法輪の所なり
かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にちょうどあたるのだけれど、今日の法華経構成でいう2「方便品」から9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ、いったん流布していったのだ。
しかしこれだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。そのため西暦100年前後に、さらに10「法師品」から22「嘱累品」と「序品」が加わり(ここに15「従地湧出品』や16「如来寿量品」が入る)、最終的には150年前後あたりで23「薬王菩薩本事品」から28「普賢菩薩勧発品」が添加編集されて、ほぼ今日の構成にできあがった。途中さまざまな書き換えも着替えもあったろう。
ざっとはこういう多様な編集プロセスがあったのだが、これらのなかでの最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というのだが、ただしその達成がおこるには、思想だけを提案していてもダメなのだ。その担い手の仏法的な意味をあきらかにする必要がある。
こうしてここに登場したのが「地湧の菩薩」だったのである。総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。
これよって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解を「一仏乗」に向かって一挙に止揚することにした。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。
しかしながら、それだけではまだ不具合もおこる。副作用がおこる。たとえば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか(つまり自己発見プログラムの開発ばかりに向かったのか)。どうしたら自分の自覚と他者の救済を同時にできるのか。それらについての説明はできてない。なにより、このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているように見える。実際に変節しているのだとしても、その理由を説明できない。
では、どうするか。ここにおいて「ブッダの方便」という格別の編集術が披露されるのだ。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使されたのである。ここからが法華経編集独特のアブダクションになっていく。
空より花降り地は動き 仏の光は世を照らし
弥勒文殊は問ひ答へ 法華を説くとぞ予(かね)て知る
よく知られているように、法華経にはいろいろのレトリックがある。メタファーがある。それを総じて「方便」という。現在の日本人には方便は「嘘も方便」というようにあまりいい言葉と映っていないようだけれど、ぼくはそれを編集思想のたいへんよくできたラディカルきわまりない概念工事だと思っている。
方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。
ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして法華経が書かれたのは当然である。しかし、その生身(なまみ)のブッダ自身には永遠性はない。ブッダは80歳で死んだのだ。だからこそ信徒もふえたのである。一方、壮年期にたどりついたブッダの悟りはまさしく成仏・成道であるのだから(これを疑ったら何も始まらない)、そこには「仏としての永遠」もあるはずである。
では、この、いささか接ぎ木のようになっている二つのことを、うまくつなげて説明するにはどうするか。そこで、ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔の久遠のときに成仏していたのだというふうに、法華経は後半部に進むにしたがって説き方を変えるようにしたわけだ。
衆生(しゅじょう)を救済するために、私(=ブッダ)はいったん涅槃に入る姿を示すけれど、実は実態としての涅槃に入るのではありません。それが証拠に、この法華経をいま説いているリアルワールドの霊鷲山(りょうじゅせん)にあって(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をしている場面に始まっている)、ほれ、ブッダはいまもなおこのように説教しつづけているのですよ、というふうにした。

霊鷲山上の法会
(「法華経曼荼羅」第一軸部分)
これは驚くべき解釈視点の転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。法華経はその文脈が進むにつれて、説得のコンテンツが相転移をおこすようになったのだ。それを法華経は、15「従地湧出品」に続く16「如来寿量品」のところで説明してみせるのである。しかも、その方便活用のメソドロジカルな下地は、2「方便品」や3「譬喩品」でちゃんと用意されていた。かくしてここに、「久遠仏」としてのブッダの存在学が確立していくことになる。
三身仏性 珠(たま)はあれど 生死(しょうじ)の塵にぞ汚れたる
六根清浄(ろっこんしょうじょう)得てのちぞ ほのかに光は照しける
いささか教学的な用語をつかうけれど、歴史上のブッダは生身(しょうじん)という。これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)である。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあったのだから、その、至高の智慧となったブッダという覚醒の内容は生身でも法身でもない。これを「報身」という。
他方、生身でなくなったブッダとは何者か。たしかに死んで涅槃に入ったようだった。けれどもそれはまた、たんなる死ではないはずだ。悟ったまま涅槃に入ったからである。そこで、そのブッダを「応身」というふうにする。
そうすると、ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになり、そのように変化するためには、もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていたということになる。そう、法華経は編集的相転移を進めていったのだ。それで、どうなったのか。久遠仏としてのブッダという、フィクショナルではあるけれど、しかしとんでもないアクチュアリティをともなって巨変しつづけるブッダ像がつくられた。
もっとも、こんなアクロバティックな説明はすぐには納得できないだろうとも予想された。実際にも、この説明を聞いていた者たちはなんとなく疑問をもった。いや、法華経のテキストはそういうふうに、法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りをする。
想定される疑問は、こうだ。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのでしょうか。
そこで当のブッダがいよいよその意味を証していくというのが、法華経の後段になったわけである。「従地湧出品(じゅう・じゆしゅつほん)」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在学の核心部にあてられる。かくて法華経はみごとに前半部と後半部を並列処理できるように構成されて、いよいよ大乗仏典の「万善同帰教」として君臨することになったのである。
法華経八巻は一部なり 拡げて見ればあな尊(とうと) 文字ごとに
序品第一より 受学無学(じゅがくむがく)作礼而去(さらいにこ)読む人聴く人皆(みな)仏(ほとけ)
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩勧発品」。
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり
こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)
この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話
またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ
法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。
釈迦の御法(みのり)は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる
さて、まとめていえば、法華経の外観はよくできた物語だった。ドラマ仕立てのスペースオペラなのだ。場面も移っていくし、登場人物も多い。『レッドクリフ』の比ではない。だからまさに物語になっているのだが、そこには別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしているのが、よく見える。つまり編集の苦労のアトがよく見える。
そのことを説明するには、ここで1「序品」→2「方便品」→3「譬喩品」というふうに、1品ずつの内容をかいつまむべきだろうけれど、今夜はよくある法華経入門書のようにそれを踏襲することはやめておく。そのかわり、最も構成が絶妙なところだけをあらためて指摘する。
法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と
我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし
ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。
古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ
法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』
法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれた。父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読むようになった。
その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。ところがそのころ関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。このあたり、けっこう血腥い(もともと宗教は血腥い)。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興(ようこう)が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招くことにした。
ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳にとりくむというふうになる。その質量、35部294巻におよんだといわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だったのだ。鳩摩羅什はほかにも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深いものだった。
ところで姚興が羅什の出奔をおそれて美女十人をあてがったのというのは有名な話だが、羅什のほうもそれを拒むこともなく悠然と美女と遊んで暮らしたというのだから、なるほど仏典翻訳編集の難行と愉悦とはこういうものでもあるかと思わせる。いやいや、仏典翻訳がつねにそういうふうであるというのではありえません。鳩摩羅什はそうだったということだ。
さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。
こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。
仏に華香奉り 堂塔建つるも尊しや
これに優れてめでたきは 法華経もてる人ぞかし
こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国においては仏法は王法に匹敵できたのである。ただし、そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなった。
また、中国では最初から大乗仏教が優先された。インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教のなかの何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定をうけつづけたのだ。それを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)というのだが、たとえばさきほど述べた「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされたのである。
こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れこんできた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をこそもちこんだのだ。
一方、知られるように、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まっている。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになると、ここに日本独特の法華美学のようなものが立ちあらわれてきた。