中論の論証形式について/江藤正顕『比較社会文化研究』第1号(1997)11~21頁転記~ナーガールジュナのvyavahara~

出典:https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4494426/001_pa011.pdf

【要約】

 本稿は、ナーガールジュナ(150~250頃)の著した『中論頌』(Madhyamakakalika)の論理構造に関して若干の考察を試みたものである。この論書は、『般若経』を始めとする大乗経典の理論的支柱として、それが後代に与えた影響は計り知ない。以降の大乗仏教運動を今日に至るまで、その理論面から支えていくことになったのは、他ならぬこの『中論頌』である。
 ところでこの論書の中心は「空」(sunya)ということにあり、その概念は従来の部派仏教の哲学論理を大きく変化させた。しかし同時に、それはまた仏教内部の部派やインド六派哲学との論争を惹き起こすことにもなったのである。ここでは、「同一律」を否定することによって成立する「空」の論理構造を、『中論頌』そのものの言説(vyavahara)を通して検証し、その論理が切り開いた独特の地平と、またその論理みずからが含んでいる陥咋とを跡づけようとする。

 すなわち、1、『中論頌』を、「形而上学」を退けようとしながらそれ自身「形而上学」になってしまったものとして捉え、これを言説と観念の関係という観点から批判する。
 2、『中論頌』の思想的意義を、仏教思想の体系そのもののなかに認めるのではなく、その外部との〈日常的言語表現〉つまり「言説」(vyavahara)による対話の可能性において見る。以上の立場を取って本稿は展開される。

「大乗仏教」の最も基本的な論書とも見なされるナーガールジュナ(Nagarjuna、龍樹、150~250頃 )の『中論頌』には、後代数多くの註釈書が書かれ、その真意についてさまざまに論じたものが残されており、ほぼそれらの解釈に従って『中論頌』は理解されてきたといえる。しかしその解釈も『中論頌』を解明するよりは、むしろ誤解や混乱を生じさせているとも言えるほどに、『中論頌』の語っていることとは異なっているように見える。山口瑞鳳氏は、その論文「仏教における観念的実在論の排除ー「空」は「零」でも「無限小」でもないー」の冒頭において、今日にいたるまでの仏教学を批判して、次のように述べている。

 今日の仏教学では、研究者さえも仏教が基本的に観念論を説くものと理解している。尤も、仏教の歴史の中でいくつもの観念論が説かれて来たから、それらに気を奪われると、観念論が仏教の本流であると錯覚しがちになるであろう。大きな流れを追うだけでも、刹那滅論、唯識説、如来蔵思想、チャンドラキールティや中国華厳哲学で説かれる相互縁起(相依性)など、どれをとってみても観念論に終始していて、諦観の智を得るために現象世界を凝視して、知覚されているものの原因としての在り方を、本当の意味で「如実」に吟味したものはない。ほとんどが知覚経験の結果である空間的表象から抽象し、構築された静止的な観念論のみを言薬を通じて指向の対象として、議論しているだけである。

 この氏の指摘を踏まえつつ、ここでは、過去の註釈書に従って論じるという従来の仏教学研究とは方法を異にして、直かに『中論頌』そのものの論理構造の問題点を考察してみようと思う。あらかじめ断っておかなくてはならないが、この論考の意図するところは、『中論頌』によって目指されているものが、そのことを敢えて批判的に捉えることによってしか、その全貌あるいは可能性を現さないのではないか、という点にある。すなわち『中論頌』は逆説としての論書と見なければ、その主旨の根本には近づきえないのではないか、というのがこの論考の眼目である。

 『中論頌』は通常言われているように、いわゆる西洋的な形式論理学からすれば、その根幹をなす三本柱であるところの「同一律」「矛盾律」「排中律」のいずれをも否定するところに成り立つものである。而してここでは特にその「同一律」についての問題点を中心に据えて、それを拡大してみることによって生ずる意外性の出現可能性を示そうと試みる。そのことによって一般的に仏教の、殊に大乗仏教の根本を成すと考えられている「空」「中道」「涅槃」「如来」さらに「法」「等々の概念についての捉え方もまた、大きく異なったものになるのではないかと思われるからである。しかしそのことによって仏教の体系のその後の展開がすべて無化されたり否定されたりするわけでない。ただこの論考では『中論頌』の論理をその論法に従えば従うほど別様な場に導かれる可能性が出てくることを強調しておきたいのである。

 異なる文化のもつ論理構造を論ずる場合、それが言語によって表されたものであればあるほど、その言語構造および意識構造にまでそれは深く関わる問題であり、単純な比較や類推を行うことには慎重でなければならない。

 それは実はほとんど不可能なことでもあろうが、しかし敢えてここでは、トポス(場所)を共有しうるものをもって〈論理〉と考えるならば、『中論頌』のすべては論じられないにせよ、その一側面を浮かび上がらせることは出来るように思われる。

 本論考においては以上の点に留意しつつ、「同一律」すなわち「AはAである」という論理の基礎の基礎ともいうべきその一点に絞って、『中論頌』に接近しようとする

『中論頌』においては「無自性・空」(nil)Svabhava•sunya)というように、この「AはAである」が根本的に否定されるのであるが、そこで起こる疑問は、それが必ずしも彼の意図している結論には向かわないのではないか、ということなのである。すなわち、彼は「無自性・空」をもって「縁起」を説き、さらにそれを「中」と言うのであるが、その「空」をもってただちに「中」とすることに対する疑問である。そしてその疑問は同時に、「二諦説」的に世界を捉えることにも繋がってくる。つまりここにおいて彼は自らの論理の可能性を自らで捨て去ってしまっているのではないか、ということである。そのことの論証のために、その関連の箇所には『中論頌』からの引用を掲げるが、しかし『中論頌』は全体が極めて有機的に連関しており、特定の一部分だけを切り取ってくることは許されず、常に全体との関係のなかで読まれなければならない。

 では何故先のような帰結に導かれてしまうのであろうか。その理由を考えてみるに、それは彼の言語の捉え方それ自体に深く関わっている問題であるように思える。そしてそれを明らかにするためには、『中論頌』に記された言語をいくら具に検討してみても十分とは言えず、むしろそれを支えている彼の思考の動きそのものに着目しなければならない、と考える。

<参考情報>

■『空』を例える

・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)

そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)

ツバそのものは変わらない

・中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない

つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが

それが中道である

無自性

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

 故に、ここでは『中論頌』の表面に概念や命題として