出典:

「空」ということばは、梵英辞典によると、「空洞、からつぼ、ふくらんだ状態、空虚、うつろ」というような意味をもったことばであって、佛教的にいえば、人生諸般の存在が、「うつろ」であり、「空しい」という意味をあらわしており、「さだめがたい」(無常)、「ままならぬ」(無我)ということばと共通した意味をもっている。しかし、原始佛教や小乗アビダルマの佛教では、主として「無常」「無我」ということばを用い、ほとんど、空ということばを用いない。「空」ということばは、大乗佛教にいたってその教義の中心をなすことばとなるのであって、龍樹によると、「空」は「縁起」「無自性」の同義語として用いられ、一切の存在は、絶対的な存在でなく、相対的な条件づけられた縁起的存在であり、固定的な独立自存の自性をもって考えられない、空しい無自性の存在とされている。
<参考情報>
■縁によって本体は変わる
・口の中にあるツバ(縁)は自然と飲める(汚くないツバと心で思う)
⇒一旦、口の中にあるツバをコップに出したツバ(縁)は飲めない(汚いツバと心で思う)
⇒固定的な汚いツバは永遠に存在しない

■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性=空

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
しかし、考えてみると、龍樹の空の思想は、日常の常識とは全く逆である。常識的にいえば、一切の存在はそれぞれそのもの自身の「自性」をもつものと考えられる。一切の存在は、自性のない、うつろな、空しい、存在性のない存在ではない。花は花として有るところのものであり、水は水として有るところのものであって、花と水とはそれぞれそれ自身の固有の「自性」をもった存在でなければならない。
「自性」は、存在の背後にある「存在そのもの」、あるいは、「実体」という尋へきもので、経験的な可視的な存在ではないが、存在に自性を想定しなければ、存在にたいするわれわれの概念的理解も成立しない。花が花としての自性をもつものでないならば、われわれは花を花として考えることもできないであろう。
しかし、それにもかかわらず、龍樹によると、一切の存在は空しい無自性の存在とされる。龍樹の著作を見ると、彼れは全力をあげて存在の自性にたいする論破をおこなっている。これは、何故であろうか。自性を批判する龍樹の空の論理にしたがうと、これは、次のような理由からであると考えられる。