■<中道>か<二諦>か
・『中論』の中心思想をどこに求むべきか
⇒学者によって種々に説が異なるであろうと思う。
⇒本邦においては普通常識的には『中論』は空または諸法実相(事物の真相)を説くといわれている。
⇒しかし三論宗によれば
⇒『中論』は主として二つの真理(二諦:にたい)を説いている、と定められている。
⇒たとえば嘉祥大師吉蔵は二つの真理が『中論』の中心思想であるゆえんを種々に説明している。(『三論玄義』六六枚左ー六九枚)。
⇒ところがここに困難な問題が起こる。
⇒『中論』と題する以上、『中論』の中心思想は二つの真理ではなくて、<中道>ではないか、という疑問がそれである。
⇒「問う。既に〔題をつけて〕『中論』と名づく。何が故に中道を宗(根本的立場)と為さずして、すなわち二諦を宗(根本的立場)とするや」
⇒これに対する答えをみるに、
⇒「答う。すなわち二諦は是れ中道なり。既に二諦を宗となす。すなわち是れ中道を宗となすなり。
⇒然る所以は、還って二諦について中道を明かすを以ての故なりー世諦(世俗的真理)の中道、真諦(究極的真理)の中道、非真非俗の中道あり。
⇒ただし今は名と宗と両(ふた)っながら挙げんと欲するが故に、中と諦と互いに説くが故に、宗はその諦を挙げ、名はその中を題す。
⇒もし中道を名となし、復た中道を宗となさば、ただ不二の義を得て、その二義を失うが故なり」(『三論玄義』六九枚ー七〇枚)。といって依然自説を主張している。
⇒しかしながら『中論』自体にこのような見解を持ち込むことができるかどうかは疑問である。
⇒二つの真理(二諦)のことは第二四章(四つのすぐれた真理の考察)の第八・九・一〇詩に言及しているのみであるから、この問題に関しては独立に研究する必要がある。
⇒故に『中論』およびその註釈書により中観派自身の主張することを聞こうと思う。
⇒チャンドラキールティの註解によると
⇒「中観派は虚無論者と異ならないのであって・・・・」(『プラサンナパダー』368ページ)という反対者の批難に対して、
⇒「そうではない。何故か。何となれば中観派は縁起論者であって・・・」(同368ページ)と答えている。
⇒故にチャンドラキールティは自ら縁起論者と称しているのである。
■縁起を説く帰敬序(ききょうじょ)
・ナーガールジュナは『中論』の冒頭において次のようにいう。
⇒「不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出であり、戯論(けろん)が寂滅(じゃくめつ)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中での最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」とあり、
⇒この冒頭の立言(帰敬序:ききょうじょ)が『中論』全体の趣旨である。
⇒上記の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
⇒「〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく、〔われらから〕去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」
⇒さらにアサンガ(無著:むじゃく、310ころ~390年ころ)のいわゆる『順中論』をみると、
⇒その帰敬序(ききょうじょ)に対して、
⇒「かくのごとき論偈(ろんげ)は、是れ論の根本なり。尽(ことごと)く彼の論を摂す。われは今さらに解す」(巻上、大正蔵、三〇巻、39ページ下)と評しているから、
⇒この縁起を説く帰敬序(ききょうじょ)が『中論』の中心思想をあらわしているとみてさしつかえない。
⇒チャンドラキールティが、「中論の闡明(せんめい)せらるべき目的は縁起である」(『プラサンナパダー』3ページ)というのも当然であろう。
■『中論』の最後の詩句
⇒以上は『中論』の最初の詩句について検討したのであるが、
⇒次に『中論』の最後の詩句にあたってみよう。
⇒すなわち第二七章(誤った見解の考察)の第三〇詩に、
⇒「一切の〔誤った〕見解を断ぜしめるために憐愍(れんみん)をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命したてまつる」とあり、
⇒チャンドラキールティの註をみると、
⇒「誰であろうと、〔正しい真理(正法:しょうぼう)を、すなわち〕不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出であり、戯論(けろん)が寂滅(じゃくめつ)して吉祥(きちじょう)である正しい真理を、縁起という名によって説きたもうた。・・・その無上無二なる師に帰命したてまつろう」(『プラサンナパダー』592-593ページ)と註解しているから、
⇒『中論』の縁起説によれば<正しい真理>とは縁起をさしているのである。
⇒またこの詩句に対する「般若灯論釈」の解釈をみると、「勝思惟梵天所問経(しょうしゆいぼんてんしょもんぎょう)」の、
⇒「深く因縁(いんねん)の法を解せば、すなわち諸(もろもろ)の邪見無し。法は皆な因縁に属す。自ら定まりし根本無し。
⇒因縁の法は生ぜず、因縁の法は滅せず、もし能くかくのごとく解(げ)せば、諸仏は常に現前したまう」という詩句を引いた後で、『中論』全体を要約して、
⇒「いま無起等に差別(しゃべつ)せられたる縁起を開解せしむるは、
⇒いわゆる一切の戯論(けろん)および一異等の種々見を息(や)めて、悉(ことごと)く皆な寂滅せること、この自覚せる法ーこの虚空のごとき法、これは無分別法にして、これは第一義の境界(きょうがい)の法なり。かくのごとき等の真実の甘露を開解せしむー、これが一部の論の宗意なり」(一五巻、大正蔵、三〇巻、135ページ中ー下)という。
⇒故に『中論』は最初に縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって要約している。
⇒それでは、『中論』全体が縁起を説いているといいうるのではなかろうか。
⇒チャンドラキールティの註によれば、
⇒「一切のものが縁起せるが故に空であるということが、『中論』全体によって証明されている」(『プラサンナパダー』591ページ)という。
■閉却されていた『中論』の縁起説
・『中論』が縁起を中心問題としているということは
⇒従来の仏教研究の伝統からみれば、すこぶる奇妙な議論のようにみえるかもしれない。
⇒サンスクリット原文出版以前に『中論』を読む人は
⇒すべてクマ―ラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳でピンガラの註釈にのみ依っていたが、
⇒クマ―ラジーヴァ(鳩摩羅什)は縁起(Pratītyasamutpāda)を
⇒「因縁」「衆因縁生法(しゅういんねんしょうぽう)」「因縁法」「諸因縁」などの語によって訳していたから、
⇒『中論』の縁起説は明瞭に理解されなかった。
⇒そうして仏教内における種々の縁起説を並べて説明する場合にも、業感(ごうかん)縁起、頼耶(らや)縁起、真如(しんにょ)縁起、法界(ほつかい)縁起などはよくいわれるが、
⇒『中論』の縁起説については少しも言及されていなかった。
・ところが『中論』の序文やチャンドラキールティの註釈が出版されるとともに、研究者により、『中論』独自の縁起説がようやく注目されるようになった。
⇒現在なおわが国では『中論』の縁起説は閉却されているが、
⇒しかし『中論』の中心思想を縁起に求めるということは近代諸学者の承認を得ていることであり、何らさしつかえないと思う。
⇒嘉祥大師吉蔵も『中論』は二つの真理(二諦:にたい)を宗(根本的立場)としているといいながらも、他方『中論』の主題は縁起であるという。
⇒「能くこの因縁を説くを顕正(けんしょう)と謂うなり」(『中論疎』25ページ下)
⇒さらに『中論』の基づく『般若経』も縁起を説いている。
⇒たとえば、あるところでは縁起の順観と逆観とをなすべきことを説き、またあるところでは「縁起は甚深なり」と讃嘆し、またあるところでは縁起を説明したあとで、「善現よ、まさに知るべし。諸の菩薩・摩訶薩(まかさつ)は、般若波羅蜜多を行ぜんと欲せば、まさにかくにごとく縁起を観察して、般若波羅蜜多を行すべし」という(荻原本『八千頌般若(はっせんじゅはんにゃ)720ページ)
⇒したがって『中論』のみならず、一般に空観を説く書は縁起を問題にしている。
⇒ここにいう<縁起>とは
⇒相依していること(relationality)という意味であり、<空>と同義である。
⇒ナーガールジュナは変化そのものを否定した。
⇒本性上はいかなる変化も起こらないのであり、
⇒したがって人が悲しむべき理由もなければ、喜ぶべき理由も存在しないというのである。
⇒『中論』は縁起を説いている書であり、中観派は縁起論者である、という結論が得られる。
⇒以下においてはこの問題をさらに深く論究。
■二種類の縁起
・『中論』の縁起説を知るためにまず注目すべきことは『中論』においては縁起に二種類あるということである。
⇒嘉祥大師吉蔵によれば、『中論』二七章のうち、始めの二五章はもっぱら大乗の教えを明らかにし、終わりの二章は小乗の教えを述べたものである、
⇒すなわち前者は大乗の観行(かんぎょう)を明かし、後者は小乗の観行を明かしているから、『中論』全体が二分されているという(『中論疎』81ページ下、82ページ下、1021ページ上。『三論玄義』61枚左)
⇒この嘉祥大師吉蔵の所説は古い註釈についてみても確かめられる。ピンガラの註釈によれば第二説く章(〔縁起の〕十二支の考察)の始めに次のようにしるしている。
⇒「問うて曰く。汝は摩訶衍(まかえん。大乗のこと)を以て第一義を説きたり。我れはいま声聞法(小乗のこと)を説いて第一義の道に入ることを聞かんと欲す」(大正蔵、三〇巻、36ページ中)
⇒次に「答えて曰く」として『中論』の本文の詩句が引いてある。
⇒また『無畏論』も、「問う。汝は大乗の本典により入第一義を説き終らば、今まさに汝は声聞の本典により其入第一義を説くべし」というのに対して、詩句を持ち出して答えている。
⇒故に始めの二五章に出てくる縁起は大乗の縁起、すなわち『中論』が主張しようとする独自の縁起が説明してあり、
⇒第二六章には原始仏教聖典一般ならび小乗の縁起が説明されているといいうる。
⇒そしてピンガラの註釈によると、この二つの縁起を対比せしめている。
⇒「仏はかくのごとき等の諸の邪見を断じて仏法を知らしめんと欲するが故に、先ず声聞法(小乗)の中において十二因縁を説けり。またすでに習行して大心あり、深法を受くるに堪うる者たり。
⇒大乗法を以て因縁の相を説く。いわゆる一切法の不生不異等、畢竟空(ひっきょうくう)、無所有なり」(大正蔵、三〇巻、1ページ中)
⇒すなわち『中論』は従来から伝わっている小乗一般の縁起論に対抗して独自の縁起説を説いたのである。
⇒ナーガールジュナが
⇒小乗の十二因縁の説を何故後のほうで附加的に説明しているかは不明であるが、
⇒おそらくナーガールジュナの主張する独自の縁起は、
⇒名は同じ「縁起」でも内容が非常に異なっているというところを
⇒人びとに充分理解させるためであったろうと思われる。
⇒すなわち嘉祥大師吉蔵によれば「ただ大を顕わさんがための故に」小乗の縁起をも説いたのであろう(『三論玄義』62枚左)。
⇒以上種々に論述してことを要約すれば、次の二点に帰しうる。
・第一 『中論』は縁起を中心問題としている。
・第二 『中論』は従来から小乗で説く<十二因縁>に対して独自の縁起を説き、しかも対抗意識をもって主張している。
⇒では、ナーガールジュナが相手にしたかれ以前の縁起説は、どのようなものであったのか。
⇒次にそれを考察してみよう。
<参考情報>
◆十二因縁(または十二縁起)
人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考察し、その原因を追究して、
以下のような十二の項目の系列を立てたもの。
※小乗のいわゆる「十二因縁」は時間的生起の前後関係を示すものと『中論』はみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点(赤色太文字)を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
<参考情報>









出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」
⇒と説明しているから、『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)
<参考情報>
「自性(じしょう)分別(ふんべつ)」とは、自ら思い込んだ固有の性質(自性)ありと別け隔てすること格差を設けることであり、それは優越感、劣等感、差別意識、偏見、他者を見下すことにつながりやすい。
したがって、他者の救済、他者への思いやり、すなわち慈悲心は希薄となろうから分別を除く必要がある。このことによって誤った営み(業と煩悩)が正され得ることになる。
空の智慧に目覚めることとは偏見、差別意識の不条理に気付くことに始まる。すなわ
・小乗アビダルマの縁起説
輪廻において形成された思い込み(自性)→戯論→分別→業と煩悩→さらなる輪廻
・ブッダ、ナーガールジュナの縁起説
輪廻から解脱への道(どう)は、自性の空性(縁起・無自性)→戯論の滅→分別の滅→業と煩悩との滅→解脱