■縁起と空
出典:斎藤明 国際仏教学大学院大学教授・東京大学名誉教授https://www.jstage.jst.go.jp/article/todaibusseibunka/55/0/55_59_4/_pdf/-char/ja
私は学生時代から仏教に関心があってこの専門を選んできました。仏教の一つの特色でもありますが、禅もあれば念仏や唱題もあり、それから天台・真言の伝統を背景に、日本の仏教が今に至るまでどうしてこのようにバラエティーに富んでいるのか。これが率直な関心でもあったし、分からない点でもあったわけです。
そこで、インドにさかのぼって勉強しようと思いました。今になっても全体像がつかめたとはとても言えませんが、仏教の大きな道筋をたどってきたということです。
今日のテーマは、縁起と空です。縁起については後に様々な解釈があるわけですが、仏教における思想的な道筋、バラエティーに富んだ仏教思想の骨格になっているものを一つ挙げろと言われれば、まぎれもなく縁起思想、仏陀が悟ったという一つの道理、これをおいて他にはありません。ただここで道理というのは一つの大乗仏教的な解釈になるわけですけれども、ともかく、今日はこの縁起を中心に、仏教の中心線、骨格をなしているものを考えてみようと思っております。
■縁起とは何か
われわれが「縁起」という言葉を聞くと、仏教の基礎的な知識のある方は、ブッダが菩提樹下に悟ったのが縁起であり、弟子のために分かりやすく説明したのが四聖諦の説であるというのは、ご存じのことかと思います。
けれども、ただ日常的に縁起という言葉を聞いたときには、「良いこと、悪いことの起こる兆し」だとか、あとは「縁起を担ぐ」という使い方を思い浮かべます。「験を担ぐ」という言葉も、私の聞いたところでは「ギエン」、つまり縁起の逆さ言葉だそうです。江戸時代に流行った言葉で、縁起を逆さまにしてギエンにして、縮まってゲンになったということです。
それからもう一つは、ご承知のように「寺社・仏閣の縁起」と言うと、「寺社や仏閣の沿革やら由来」を意味します。実は二番目と三番目の意味は、一番目の意味を踏まえています。必ずしも無関係ではありません。
それでは、縁起とは何なのでしょうか。縁起はもともと、インドのサンスクリット語という言葉で「プラティーティヤサムウトパーダ」(pratītya-samutpāda )と言います。これは「縁って生じること」を意味します。素直に理解すれば、原因によって、依存して生じるという意味です。「依存性」と訳す人もいますけれども、「縁起」という言葉は現代語としても半ば使われていますので、これをあえて現代語に訳す必要はないだろうと思っております。
今われわれは、仏教用語を改めてふさわしい現代語に直したらどうなるか、ということを考えるプロジェクトをやっておりますが、縁起とか空という言葉はそのまま残したい、と考えています。それほどに定着した言葉です。また漢語の便利なところは、大変コンパクトな表現で表せるということです。縁起を英語ではよくdependent arising とかdependent originationと訳しますが、それも少し長ったらしい。これを日本語にして「よって生じること」と直訳しても長い訳語になってしまいます。ですからここでは縁起という伝統的な漢訳語をそのまま使いたいと思います。
この縁起とは、いかにすれば人はその苦悩から解放されるのかという問題と深く関わっています。解放されるというのは、静けさに満ちた境地をいかに得るかということですが、仏教ではその境地のことを「ニルヴァーナ」(涅槃nirvāṇa )と言います。正確には仏教のみに特有な術語ではないですが、当初は仏教に固有の、煩悩の炎が消え去った状態という意味でこの言葉が使われていました。
それをいかにして獲得するかと考えたときに、とにかく苦悩がもたらされる因果の系列をブッダは辿ったということです。それが端的に縁起という言葉で表されるようになりました。ですから縁起は、いかにすれば人はその苦悩から解放されるのか、という人生の普遍的な課題に対する回答という性格を持っています。
<参考情報>






出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
苦悩には必ず原因があります。病気には必ず原因があるのと同じです。それをひとまず自分のうちに探れば、煩悩、またはそれに根ざした行為が関係しています。その原因である煩悩が静まった状態をニルヴァーナと言います。また、苦悩から解放されたという結果に焦点を合わせて表現すれば、「解脱」になります。インドの言葉では「モークシャ」とか「ヴィムクティ」などと言われます。これらは、仏教を離れてインドの多くの宗教思想、とりわけゴータマ・ブッダ時代に現れた沙門型の宗教、出家遊行者型の宗教で広く用いられます。ブッダ自身も禅定によって悟りを得たということですから、広い意味でのヨーガ行者であることは間違いないわけです。
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出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
さて、苦悩がいかにもたらされるかという因果関係を、法の連鎖と言います。法というのはインドの言葉で「ダルマ」と言って、支え保つものという意味を持っています。仏教では、われわれの生きている世界の様々な要因、項目となっているものをダルマと呼びました。ですから仏教的な意味合いでダルマと言えば、この世界を支えている物質的・精神的要素というのが基本的な意味です。英語ではよくelements などと訳されますが、なかなか簡単に訳せるものではありません。単に法と言っても、理法、あるいは教法などと様々な意味を持ちうるからです。
ダルマには大きく分けて三つの意味があります。まずは先ほど述べた要素としてのダルマです。
それから、要素を貫いている共通の性質や道理としてのダルマです。例えば「諸行は無常である」と言うときの「無常」だとか、「一切の諸法は空である」と言うときの「空」であるとか、これらが諸法に共通した性質、道理としてのダルマであり、後世の言葉で言えば、「理法」にあたります。実は「理」というのが付くのは中国に入ってからです。インドにそのままぴったり当てはまる言葉があるわけではありません。様々な要素に共通の一つの道理として、そのように訳されるようになるわけです。
そして最後に、この二つを説いたものがブッダの教え(教法)だということで、ブッダの教えがまた法として訳されたりもします。
ここで縁起というのは、理法、すなわち道理としての法にあたります。これは要素としてこの世界を構成しているものではありません。例えば見る機能を持っている視覚器官だったり、音を聞く耳という器官だったり、それによって聞こえる対象の色や形だったり、そういった個別の要素ではない。個別の要素が必ず縁って生ずるというあり方でもって、共通の理法に貫かれている、そういうときに使うのが縁起ですから、これはもし法という言葉を当てたとしても、それは理法、道理としての法ということになります。
■初期仏教における縁起
原始仏教、最近ではしばしば初期仏教という言い方をしますが、これは部派に分裂する以前の仏滅後百年あまりの間の仏教を指します。この初期仏教が大きく二つの部派に分かれ、さらに多くの部派に分かれていく。これを部派仏教と言います。これらの部派の中で論書が生まれ、議論が積み重ねられて、それぞれ経典や律の伝承を最初は口頭で伝えながら、後に書写して伝承するようにもなるというわけです。こういうことで大乗仏教が登場した、少なくとも表に出てきた頃には、十八の部派があったと言われています。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
縁起については、部派仏教の時代から大乗仏教、そして近代に到るまで多くの論争がありました。縁起とはそもそも何なのかという問いに対して、「縁起は論理的な関係を言っているのではないか」とか、「そうではなくて、三世にわたる輪廻の説明原理として使われている」とか、これが明治の終わりから大正にかけて、近代の研究者間でも大きな論争のあったテーマです。そういうわけで、縁起は仏教の思想史において特に重視され、様々な解釈と論議をもたらしました。後に触れますが、大乗仏教の如来蔵縁起やアーラヤ識縁起といった説も、もとを辿れば初期仏教の縁起の解釈からスタートしているともいえます。
さて、初期仏教と縁起についてですが、ブッダの成道の場面を描くときにいくつかの表現がある中の、代表的なものが縁起の説です。その他に、四禅によって三明を明らかにしたという話もありますが、三明も実は縁起説と無関係ではありません。過去の宿習と煩悩の克服、未来の生という三つの観点から、無明を明に転じたということは、ある種の縁起の解釈につながるからです。
ただなんと言っても、この縁起の道理を理解することで、初期仏教は体系的に理解できようかと思います。初期仏教の説というと、中道、四諦、八正道などをばらばらに教わって終わりかねませんが、これらは全て縁起をしっかり理解することで、体系的に理解できるというところがあります。初期仏教の説をいかに体系的に理解するか、これが大事なポイントです。
漢訳の仏典であれパーリの仏典であれ、われわれが初期の仏典を見ると、およそ縁起と言えば、十二支の縁起説が出てきます。これは基本的に惑業苦といって、煩悩と行為とその結果という三つの要素をどれだけ詳しく説明するかという話です。まず煩悩が、身口意の三業、すなわち身体的な行為、言葉を発する行為、思考行為という様々な行為を生み出します。この三つの行為をツールにして、様々にもがきながら執着して自ら苦悩を招く、というのが縁起説の骨組みです。もう少しコンパクトな縁起説は、比較的初期のブッダの考えを伝えると言われる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などに出ます。
ですから、縁起説の骨組みは煩悩と行為と結果としての苦楽の問題なんですね。煩悩が基礎になっていれば行為がいつまで経っても浄化されないので、結果として苦悩が導かれるということになります。因果系列を辿り、根っこにあたる煩悩をコントロールしきればいいんだ、それによって結果として苦悩から解放された静けさに満ちた境地が得られると、これが縁起説の骨組みです。
■四諦と縁起
ただこの縁起を悟ったブッダは法を説く段になって、縁起をそのまま縷々説明することもありましたが、ある時代以降になるとこれをもう少しコンパクトに説明したいということで、苦集滅道の四諦説が登場します。これもまた苦とその原因(集)と、苦を止めることで得られる涅槃(滅)と、涅槃に導く道ということで、やはり苦の問題をテーマにしています。集というのは本来、苦が生じることという意味です。ただ苦が生じる元となる法は何かということで、アビダルマ時代になって原因という意味で使われるようになります。
こういう展開というのは、多くの部派に見られます。縁起説は後に、原因としての諸法を究めることが縁起の探求だと解釈されることにもなり、抽象的な道理としての縁起ではなくて、何が原因で苦という法がもたらされるのかという、上座部的な解釈です。これは南方の上座部と、北伝の代表的な部派であった説一切有部とに共通しています。説一切有部のいわゆる五位七十五法の中には、縁起はどこにも出てきません。どうしてかというと、縁起は原因としての法と結果としての法に尽きている。原因としての法がいかなるあり方をしているかによって、結果として苦楽のいずれかが導かれる、と理解しているため、縁起を究めることは原因を知ることだということになります。
大乗仏教徒はまさにこのような解釈を問題にします。ブッダは原因としての法を悟ったのではなくて、因果関係という道理を智慧によって見極めたのだ、と。「智慧によって」というのは、パーリ語で「パンニャーヤ」、サンスクリット語で「プラジニャヤー」と言います。あとは動詞の形で「パジャーナーティ」や「プラジャーナーティ」など「洞察した」という言い方で出ます。『般若経』の「般若」というのは、実はここに由来すると考えられます。ブッダが般若の智慧によって縁起という理法を見ぬいた、というこの般若(プラジニャー)に焦点を当てて般若経典と名づけているわけです。
ともかく、後世の言い方をすれば因果関係が縁起ですから、縁起の原因と結果を、原因は何、結果は何というように整理すると先の四聖諦の四つになります。有部アビダルマや南伝の上座部では、縁起はブッダが悟ったもので、それは原因としての縁を学ぶことに尽きるのだから、弟子はこの四つの真理を学びなさいと、そしてそれらを学ぶ弟子はアーリヤだと説いています。アーリヤというのは四聖諦の「聖」にあたり、聖人というような意味づけになります。
苦集滅道の「集」というのは漢訳としては多少なりとも誤解を招きやすいですね。苦「因」滅道などとなっていれば良かったと思いますけれども、これには理由があります。「集」の原語はサムダヤと言って、「まとまって生ずる」というような意味ですが、「集起」とか「集生」と訳されることもありました。漢訳から一字ずつ抽出する際に、苦滅道はそのままで構わないのですが、集のところは訳語が二文字だったので、冒頭の一文字を取り出してしまったということです。いずれにせよ、苦とその原因と、苦を止めるための道である八つの正道と、苦の消滅という四つが聖者である仏弟子たちにとって真実(諦)であるということです。
■その他の教説と縁起
さて、初期仏教の時代の教えのうち、代表的な要素説に、五蘊・十二処・十八界があります。五蘊というのは、『般若心経』に「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」とあるように、色・受・想・行・識ですね。色は人の物質的な要素、受想行識は四つの精神的な要素です。なかなか五蘊説は人を知情意の観点からよく捉えています。
色というのは狭い意味でいえば人間の身体、広い意味でいえばその対象となっている色形や音声も入ります。それから受想行識、この中で一番重要なのは行ですね。行は端的に言うと意思です。意思が表に現れると身口意の三業になりますから、のちに行は意思を基礎にした体と言葉と心による活動、ないし行為という意味になります。行があって初めて対象の事物のイメージが湧いてくる、焦点が合うわけです。
われわれは焦点を合わせて日常的な活動をしています。例えば、焦点を合わせないと文字を理解することさえできません。どこかに焦点を合わせることで初めて文字も図像も理解できます。これは音でもそうですね。必ずどこかに焦点を合わせているから、雑音を排除しながら特定の音に耳が向くわけです。私の家も少し離れたところに環七が通っていますから、最初の頃は車の音が気になっていましたが、住み慣れてくると次第にその雑音に焦点が合わなくなり、気にならなくなるということがあります。
行(意思)によって焦点を合わせ、特定のイメージをつかむ作用を想と言います。想によって識、つまり認識や意識が生まれます。識が生まれると同時に、苦や楽、快・不快の感覚を覚える、これが受です。意思作用があって目や耳をそばだてるという行為をしますね。そうするとある特定の像が浮かび上がってきて、これはうちの犬だ、これは美しい花であるというような感覚を覚えるというわけです。これが、人が直接的に経験できる五つの要素である、ということです。
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十二処・十八界の方は、六識と言って、視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚そして意識、この六つがいかなる感官と対象の接触から生まれるか、という認識と意識の構造を分析しています。これらは初期仏教の代表的な要素法とされるものです。
縁起の道理は、これらがどのような因果関係によって成立しているかを説明しているわけです。ただし縁起の道理は苦楽が一番大事なテーマになっています。ゴータマ・ブッダは苦楽に直接関わらないような議論を一切相手にしなかったと伝えられています。苦楽の問題こそが人にとってきわめて重要なテーマであって、宇宙に果てがあるかとかないとか、心と体は同じか別かなど、当時の都市で議論が盛んだったテーマについては捨て置いたと言われています。


縁起説を分かりやすく説明したのが四諦説ですが、そのうちの「道」、すなわち苦悩を止めるには何をな
したらいいのかということで、八正道が説かれました。八正道とは、①正見(正しい見解)・②正思惟(正しい思考)・③正語(正しいことば)・④正業(正しい行為)・⑤正命(正しい生活)・⑥正精進(正しい努力)・⑦正念(正しい心がけ)・⑧正定(正しい心統一)ですね。戒定慧の三学はこの八つに開くことができます。
三学とは学処、すなわちわれわれが学ぶべきテーマを三つに分けたものです。そのうち慧にあたるのが、八正道でいうと①正しい見解です。②正しい思考・③ことば・④行為というのは、先ほど言った身口意の三業に関わることで、⑤正しい生活も含めて広い意味での戒に関わることです。それから最後の三つ、⑥正しい努力・⑦心がけ・⑧心統一というのが、広い意味での禅定に関わるテーマです。これらの三学、開いて八正道によって、いかに苦悩の原因をコントロールし、涅槃の境地を得るかというのが、初期仏教の―和辻哲郎などに言わせれば―実践哲学ということになります。


これらの八つの道は極端な苦行によっても快楽主義によっても得られないものですから、不苦不楽の中道というのは八正道全体のありようを表しています。それから非有非無の中道、これはナーガールジュナなどが重視した中道説ですが、初期仏教のある経典で正しい見解とは何かという問いへの回答のなかに出る表現です。物事はある条件が整えば生じてくるので、存在しないというのも一つの極端です。しかし条件が変われば変化することがありますから、あり続けるということもないのです。このように、「いきなりなくなることもなければ、あり続けることもない」というものの見方、これがこの正しい見解の意味するところです。
縁起として物事を見るというのは、すべてのものは色々なものに出会って変化するという見方をすることです。あり続けることも、いきなりなくなることもないから非有非無である。このように、非有非無の中道というのは、縁起を正しく理解することで当然理解される、極端に陥らないという立場だということになります。
■初期の仏典にみられる縁起説
初期仏教の教説は縁起を基礎に理解されうるという趣旨から、四諦説と縁起の関係などをごく簡単に説明しました。初期仏教の教説を見ると、ブッダはさほど理解しがたいことを説いてはいません。むしろわれわれがそのとおりに実践できるかという方が難しいのかもしれませんね。ここで少し、初期の仏典の記述を見てみましょう。
「熱意をもって思念するバラモン(=ブッダ)に、諸法が立ち現れるとき、かれの疑念はすべて消え失せた。[すべての諸法には]原因があるという性質を洞察したのであるから。」(『律蔵』大品・大犍度)
ここに挙げたのは、『律蔵』の冒頭、仏伝の中でブッダが悟りを得て、そして法を説き始めるという箇所です。大品にはブッダの生涯の大事な場面の説明が出ますが、その中の有名な一節です。諸法が立ち現れるときに、かれの疑念は全て消え失せた。どうしてかというと、全ての諸法は原因を持つという性質があることを洞察したからだ、と。「原因があるという性質」、「サヘートゥダンマ」と言いますが、この言葉について、初期仏教の注釈文献は少し独特な解釈をしています。「原因があるという性質を洞察したからだ」というのが正しい解釈だと思いますが、注釈は「原因を持つ結果としての法を洞察したから」と解釈します。いかがなものかという気はしますが、上座部の長い伝統を踏まえた要素主義的な縁起解釈ですから、これはこれで尊重する必要はあるかと思います。
しかしながら、大乗仏教徒はそのような理解を避け、批判しました。そのときに彼らが注目した、縁起を説明する初期の仏典があります。これは大乗仏教だけではなく、説一切有部のアビダルマなどでもしばしば引き合いに出される箇所です。
「比丘たちよ、縁起とは何か。比丘たちよ、誕生(生)を縁として老死がある。如来たちが生まれようと生まれまいと、この基礎(界)は定まり、法の定立性、法の確立性、此縁性である。如来はそれを証得し、洞察する。証得し、洞察したのちに説き、示し…(中略)…明らかにし、汝らは見よ、という。
比丘たちよ、誕生を縁として老死がある。生存(有)を縁として誕生がある…(中略)…無明を縁として諸行がある。如来たちが生まれようと生まれまいと、この道理は定まり、法の定立性、法の確立性、此縁性である。如来はそれを証得し…(中略)…汝らは見よ、という。
無明を縁として諸行があるというのは、比丘たちよ、そこにおいて真如、不虚妄性、不変異性、此縁性があるが、比丘たちよ、これが縁起といわれる。(」『相応部経典』因縁篇・因縁相応)


これは『相応部経典』という大乗仏教も重視した初期仏典からの引用です。テーマごとにブッダの教説を配置していて、漢訳では『雑阿含経典』が対応しますが、縁起とは何かをテーマとしています。

ここには後代、大乗仏教徒たちがいろいろな意味で重んじた縁起解釈が示されています。まず「如来が生まれようと生まれまいと」とあります。仏はその縁起を洞察し見抜いたから成道したのですが、仏が成道する前にもこの道理はあったのだということです。「依法不依人」というような言い方がありますが、理法にあたるものは誰かが悟る以前から元よりあった、と。
それは諸法のはっきりした定まり、ルールにあたるものだというのがこの後の台詞です。「此縁性」とか「法の定立性」とか「界」というのは、法界という言葉があるように大乗仏教できわめて重視された大事な概念です。また「真如」という言葉がありますが、これはタタターと言って、「その通りであること」という意味です。この言葉は大乗仏教の、ある時期以降の般若経典に登場します。またこの真如を重視したのは瑜伽行唯識学派という、中国の法相教学につながる学派でした。実は「その通りであること」というこの表現は縁起を形容したものです。縁起という道理はそのままのものであり、人の迷いや悟りの基礎となっている。これはブッダが生まれようと生まれまいともある、ということです。
これはどうしてかというと、縁起には二通りの意味合いがあるからです。それを伝統的には「流転門の縁起」と「還滅門の縁起」と言います。展開する縁起と止める縁起ということで、それぞれプラヴリッティ、ニヴリッティと言います。縁起の流転門は迷いの系列を説明し、他方の還滅門は原因をコントロールし、結果である苦悩から解放される道筋を示しています。
縁起というのは、煩悩によって行為が生まれ、苦悩が引き起こされる、というだけでは話になりません。その煩悩がコントロールされ、行為が浄化されて、結果として苦悩から解放されること、すなわち流転門を還滅門に転換するというところにポイントがあります。行為がなくなるのではなくて、それが浄化されて、苦悩から解放された静けさに満ちた境地に至るというわけです。この両面をあわせ持つのが縁起ですから、迷いの根拠でもあるし悟りの根拠にもなります。