仏教の歴史観と日本の金堂本尊如来像に見る変遷

釈迦の死後の三時説(仏教が完全に滅びるまでの期間を三段階に区切る時代区分)

①「正法(しょうほう):教え・修行・悟りが揃う

釈迦の教えが正しく守られ、実践される時代。

悟りが得られる時代

釈迦の入滅から約500年ないし1,000年

②「像法(ぞうほう):教えと修行はあっても悟る人がいない」

正しい修行は実践されるが外見だけ

悟りは得られなくなる時代

次の1,000年続くと考えられていた

③「末法(まっぽう):教えだけが残り、悟る者がいない暗黒の時代

正しい修行も悟りも得られなくなる時代

次の1000年から約1万年続くとされていた

の3つに分かれるとされるとした。

※末法思想は、隋・唐の時代に盛んになった

※日本では平安時代の永承7年(1052年)が末法元年と信じられており、

実際の社会混乱とこの時代区分が見事に一致したことで説得力を持った

浄土信仰との結びつき

末法の世では「自力での修行や悟りは不可能」と考えられたため、

⇒阿弥陀仏にすがり、

死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う「浄土教」が流行した

■薬師如来

■薬師如来の真言

「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」を唱えることで、

⇒病気平癒、心身の健康回復、災難除けなどの効果(ご利益)があるとされている

真言の主な意味

オン:仏さまへの帰依(お救いください)

コロコロ:速やかに(早く病や苦しみを取り除く)

センダリ:清らかなるもの

マトウギ:礼拝する

ソワカ:成就する(願いが叶う) 

■薬師如来の本願

薬師十二大願

①相好具足

②光明照被

③所求満足

④安立大乗

⑤持戒清浄

⑥諸根完具

⑦除病安楽

⑧転女成男

⑨去邪趣正

⑩息災離苦

⑪飢渇飽満

⑫荘具豊満

一乗止観院を本堂とする寺院の総称が比叡山寺で、それが弘仁14年に延暦寺と改称された

図版は『伝教大師絵伝』(延暦寺蔵)で、最澄が自刻の薬師如来像を一乗止観院に安置した様子が描かれている。

最澄が、薬師如来像を安置したとされる根本中堂(図版上)と、延暦寺の本来の玄関であった文珠楼(下)。

 最澄は近江の生まれである。琵琶湖のほとりの大津の古市郷、いまの生源寺のあたりに俗姓を三津首(みつのおびと)、俗名を広野として育った。
 14歳(宝亀11年)で近江の大国師であった行表(ぎょうひょう)のもとで出家して近江国分寺で得度延暦4年4月に東大寺で具足戒を受けた。行表が器量の大きい人だったようだ。

 木内さんは行表が最澄に示教したことは、ただひとつ「心を一乗に帰すべし」だったろうと書いているそうではあったが、ただ具足戒が気になった。

 仏教では本格的な僧尼になるためには、「自分は戒律を守ります」(持戒)という約束を果たさなければならず、そのための授戒を受けなければならない「戒」(シーラ)は仏教三学の「戒・定・慧」の必須要件のひとつで、仏法に帰依する者の大前提のことだ

具足戒はその戒の中の小乗戒で、200項目ほどの規則が示されている日本には請われて鑑真が具足戒をもたらし、東大寺にそのための戒壇院ができた

 最澄も授戒してもらったものの、小乗戒では満足できなかった。「一乗に帰すべし」がないように感じられたのだ。そこで授戒後の7月、意を決して比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅に励み、四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)のために『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をしるすべく「願文」を認(したた)めた。

 これが名文だ。「悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患いて楽しからず」に始まり、「生けるとき善を作(な)さずんば、死するの日、獄のたきぎとならん」とあって、「我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ」と顧みる。出仮は現実の世界にはたらき出ることを言う。

 このあと次のように決意を述べる。「願わくは、かならず、今生の無作無縁の四弘誓願(しぐせいがん)に引導せられて、周(あま)ねく法界を旋(めぐ)り、遍(あま)ねく六道に入り、仏国土を浄め衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さん」

 最澄は何を願ったのか。木内さんはこの願文はまさに「菩薩の発願」で、「法華一乗」に向かってすべての仏事を仕上げたいという決意に願いを懸けたのだと説明する。

 なるほど、菩薩たらんとする決意ではあったが、たんに理念的な願文ではなかった。実践プランがいくつもあった。一切経(主要なすべての経典)を書写し、大乗戒のための戒壇をこしらえ、もっと天台法門を広く実践したい。そういう思いが募っていた。延暦7年(788)、最澄は山中に一乗止観院を建てると、自刻の薬師如来像を安置した。この一乗止観院を本堂とする寺院の総称が比叡山寺でそれが弘仁14年に延暦寺と改称された。

 ここから先の最澄の活動は仏教知に対してのひたむきな渇望がすさまじい。この渇望が最澄の「菩薩の発願」を動かしてきたエンジンだったろうと思う渇望は渇愛でもあった。とくに智顗がいた天台山への憧れはただならないもので、結局、このことが最澄を遣唐使船に乗せて入唐求法に至らしめた

 36歳で還学生に応募して2年後、苦難の末に入唐し、天台山に参って国清寺で灌頂を受け、台州の龍興寺では円教完全円満の教え。天台宗では法華の教えの大乗戒も受けた。さらに越州龍興寺の近くの鏡湖の峯山道場では三部三昧耶の密教灌頂を受けた。そして金字7巻の『法華経』をはじめとする経典、多くの典籍、密教法具を携えて戻ってきた。一番弟子の義真が求法訳語(通訳)として随行していた。

 すばらしい入唐体験であったはずだが、不足不満もあきらかになってきた最澄が受けた密教灌頂は雑密(ぞうみつ)」のものにすぎず、別途に入唐していた空海が長安青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨から受けた金胎両部の純密(じゅんみつ)」の灌頂ではなかったのである。こうして帰国後は空海との「本」と「灌頂」をめぐる交流が始まり、徳一との三一権実論争が続くことになったわけである。

 空海との交流はしばらく続いたが、最澄が『理趣釈経』を借り受けたいと申し込み、これが断られたあたりから疎遠になっていった。当時は「本」そのものが認知哲学であり、その秘法であったのである。本の貸し借りこそ「懸命」なのである理趣釈経が動かなかったこと、ここに天台密教と真言密教の分かれ目が生じた。

 そうした活動のなか、最澄は九州と東国への天台法門の拡大をめざした。九州では宇佐八幡宮、豊前の香春(かわら)神宮寺などを訪れ、法華を講じたりしている。

 弘仁8年の春からは東国に向かった。円澄・円仁・徳円を伴い、道忠の門下や孫弟子がいる寺々を巡っている。道忠は鑑真の弟子で、関東一円を布教して「東国の化主(けしゅ)」とうたわれた傑僧である。入唐前の最澄が一切経の書写をしたとき、二千余巻を助写したのが道忠だった。

 最澄が同行を促した三人がいずれも東国出身者だったことは興味深い。円澄は武蔵国の生まれで、第2世の天台座主になった(第1世は入唐に随行した義真)。円仁は下野国生まれ、15歳で比叡山に入り、のちに第3世座主になっている。二人はもともと道忠の門下にいた。三人目の徳円は道忠門下ではないが、下総の出身だ。

 最澄は栃木の大慈寺で円仁と徳円に菩薩戒と三部三昧耶を授けた。なるほど、行く先々で天台法門の苗床をつくっていくのである。律義で端正なだけでは、ここまではできない。最澄は一所ずつに懸命であったのだ。最澄の天台教団のモデルはこうして「同行」の中でつくられたということだろう。

 東国巡行には、各地に『法華経』一千巻を収める宝塔を建てたいという計画もこめられていた。この計画は全国6カ所に宝塔を造立する「六所宝塔」というプロジェクトとして、その後の天台宗に受け継がれていく。

 先だって三井寺の福家長吏とともに学芸部の皿井舞さんの案内で拝見した東博の「最澄と天台宗のすべて」展で、ぼくはあらためて全国に散らばった天台寺院にまつわる仏像や屏風絵や文書の実物にお目にかかった。最澄の「願文」が聞こえてきた。

最澄は、東大寺を中心とした『華厳経』にもとづいた国分寺の制度とは別に、『法華経の一乗思想による新しいネットワークを企図した。上野(群馬)、下野(栃木)、近江(滋賀)、山城(京都)、備前(福岡)、豊前(大分)に『法華経』一千部を安置するための宝塔(図版は延暦寺東塔)を建てた。

 最澄にはどうしても生前に成就したかったことがあった。大乗戒のための戒壇院を造立すること、そのための専門の大乗寺を創建すること、その大乗戒を受けた未来の学生たちが挑むべき「忘己利他(もうこりた)」のルールブックをつくること、このことだ

 大乗寺建立のことは弟子の光定から藤原冬継を通じて嵯峨天皇に奏上する予定だったが、南都の僧綱たちの反対にあってしばらく待たされることになった。十二年籠山を規定したルールブックは六条式、八条式、四条式というふうにドラフトを重ねていったので、文書としての仕上げはまにあった。これらを束ねたものが有名な『山家学生式(さんげがくしょうしき)』である日本仏教の「戒」を代表する。山家は比叡山のことをいう。

 学生式の認定についても光定らが南都にはたらいた。すぐに裁可は降りなかった。どうも僧綱トップの護命が反対しているらしい。最澄は『顕戒論』を綴って断乎たる意図を奏上するものの、このときすでに体が危うくなっていた。死期が迫っていた。

 弘仁13年(822)、「我、鄭重に此の間(けん)に託して一乗を習学し一乗を弘通(ぐつう)せん。若(も)し心を同ぜん者は、道を守り、道を修し、相い思うて相待て」と言い残し、また「心形久しく労して、一生ここに窮(きわ)まれり」と言うと、右脇を下にして示寂した。

 享年、いまだ57歳。その7日後、大乗戒壇の独立、山家学生式が勅許された。翌年に比叡山寺が延暦寺になった。さぞかし無念であったろう。

出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~

■高野山の中心にも

平等寺が属する高野山真言宗。その総本山・金剛峯寺の伽藍の中心、金堂の御本尊も薬師如来です。

弘法大師が開いた高野山の壇上伽藍で、いちばん大きなお堂が金堂です。江戸後期の地誌『紀伊続風土記』高野山之部は、その本尊を薬師如来と記し、「寺の本堂には多く薬師の像を安ず。今の堂に薬師如来を安置し奉るも此の意なるべし」と、日本の寺の本堂に薬師が多いという通例の中に高野山金堂を位置づけています。

同じ書は、金堂で毎日絶やさず勤められた行法(長日行法)の編成も伝えます。

地誌の言葉(金堂長日行法・書き下し)

日本語訳

金堂で毎日修される行法。中央の壇では薬師法を一座、東の壇では胎蔵界の法を一座、西の壇では金剛界の法を一座。

原文

金堂長日行法。中壇に薬師法一座、東壇に胎蔵界一座、西壇に金剛界一座。

解説

胎蔵界と金剛界。真言密教の二つの世界を説く両部の行法が東西の壇に置かれ、その真ん中の壇に、薬師法が据えられています。密教の山の日々の祈りの中心に、薬師如来がいたのです。『金剛峯寺年中行事記』が伝える伽藍巡礼の次第でも、金堂に詣でたときは「薬師大呪十二反」。薬師の大呪を十二反となえると定められています。十二という数に、十二の大願を重ねて読むことができます

出典

『紀伊続風土記 高野山之部』(続真言宗全書 第39巻、394頁)

補足

高野山金堂の御本尊は秘仏で、その像容を東方の阿閦如来とみる伝えもあります。薬師と阿閦の同異が真言宗で古くから論じられてきたことは前節のとおりで、総本山の中心の御本尊をめぐって、この問いはいまも生きています。四国の平等寺の本堂に薬師如来がおられることは、この大きな伝統の、自然なひとつの現れです。

真言宗

真言宗における薬師如来

顕教は「前世で医者だったから薬師」と説き、密教は「大日如来が癒やしの三摩地に入った姿」と説きます。

なぜ薬師と名づけるのか。真言宗の事相書『祕鈔口决』は、ふたつの読みを並べます。顕教の説では、この仏は因位いんに(菩薩として修行していた過去世)に医の家に生まれ、薬を施した功徳で成仏したから薬師と名づける対して密教のこころでは、胎蔵の大日如来が除病延命の三摩地さんまじ(深い瞑想の境地)に入り、十二の大願を発して一切衆生の病を滅する、その姿こそが薬師如来である、と伝えます(報恩院の口伝)

この読みは、お像の形にも表れています。薬師如来が結ぶ法界定印ほっかいじょういん(両手を重ねる大日如来の瞑想の印)の上に薬壺がのる。それは、大日如来の瞑想が癒やしのはたらきとなって結実したしるしだ、というのです。

両界曼荼羅りょうかいまんだらに薬師如来の名が見えないことも、同じ論法で説かれます。曼荼羅の東方に座すのは阿閦如来あしゅくにょらい。では薬師はどこにいるのか。事相書は、一切諸尊を両界に摂めるときは中台の大日に摂する、薬師も中台に摂在すると心得よ、と答えます。薬師と阿閦を同じ尊とみるか別の尊とみるかは、真言宗の内部でも古来議論があり、別尊とする口伝と同体とする口伝がともに残されています。続真言宗全書に収められた事相書『諸軌稟承録』も、「古来、此れ等の文に依りて、阿閦と薬師とを同体とす。或いは同仏と為し、或いは別仏と為すも、拠有り」と、どちらの説にも典拠があると記します。密教は口伝の世界であり、ひとつの答えに畳まれてはいません

修法の側の伝来には、意外な事実があります。『諸軌稟承録』は、薬師にはもともと儀軌が無かったため、『大日経疏』の記者として知られる唐の一行阿闍梨いちぎょうあじゃりがこれを撰集し、その軌が請来されてからは諸流がみなそれを本軌として薬師法を修してきた、入唐八家(空海・最澄ら)の請来目録に薬師の儀軌は無い、と伝えます。経典は誰よりも広く読誦されながら、修法の組み立ては日本の側で丁寧に育てられてきた仏さまなのです。

なお、七仏薬師の七尊を並べて修する七仏薬師法は、真言宗の文献では一貫して天台(台密)の法とされ、真言宗では一仏の薬師法を修してきました

そして「医王」ということばは、空海自身の筆にも現れます。『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』の序で、空海は迷いの中で眠りこける人々を悲しみ、こう記しました。「曾て医王の薬を訪はずんば、何れの時にか大日の光を見ん」。医王の薬、すなわち仏の教えを訪ねないかぎり、大日如来の光を見る日は来ない、と。同じ書には、もうひとつの名文があります。

空海の言葉(『般若心経秘鍵』・書き下し)

日本語訳

すぐれた医王の目には、道ばたの草もすべて薬に見える。宝を見わける人は、ただの鉱石を宝と見る。見える人と見えない人がいるだけのこと、それが誰の罪だというのか。

原文

医王の目には、みちに触れて皆薬なり。解宝げほうの人は、礦石こうしゃくを宝と見る。知ると知らざると、何ぞ誰か罪過ぞ。

解説

顕教の経典である般若心経に、密教の深い意味を読みとってよいのか。その問いに空海が答えた一節です。ここでの医王は、薬師如来その方ではなく、法の薬を与える仏の喩え。それでも、迷いを病とみて教えを薬とするこのまなざしは、医王善逝と呼ばれる薬師如来の癒やしと同じ地平にあります。平等寺の院号のひとつ、医王院の「医王」も、このことばの系譜に連なります。

出典

空海『般若心経秘鍵』(大正蔵 No.2203A)

真言

おとなえする真言

薬師如来の真言(小咒)

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā

日本でもっとも広くとなえられる薬師の真言です。実はこの呪は、漢訳の『薬師経』本文には出てきません。日本の真言宗の事相書が、金剛智訳『薬師如来念誦法』に出る薬師の心呪として伝えてきたものです(『諸尊要抄』ほか)。フルフルは病苦を除き去るはたらきの声、チャンダーリーとマータンギーは病魔を降す女尊の名と解されます。

日本での信仰

日本の薬師信仰は、仏教の伝来とほとんど同時に始まったとみられています。その入口は、教理よりも先に、医療でした。『日本書紀』の敏達六年(577年)条は、百済から経論とともに咒禁師じゅごんし(呪によって病を治療する専門職)が来朝したと記します。病を癒やす仏教の技術と一体になって、薬師の信仰は海を渡ってきた、と研究は推定しています。

以後、国家の祈りから庶民の暮らしまで、薬師如来は日本仏教の表舞台に立ちつづけます。

  • 敏達6年(577年)。百済から咒禁師が来朝。仏教医療の受容が薬師信仰の素地になったとみられます。
  • 武9年(680年)。天武天皇が皇后の病気平癒を祈って薬師寺を発願。文献上、薬師信仰がはっきり確かめられる最初の記事です。なお法隆寺金堂の薬師像は用明天皇のための造像と伝わりますが、造像年代に諸説があり、伝来の根拠にはできないとされています。
  • 天武朝。『薬師経』が勧める放生ほうじょう(捕らえた生き物を放つ善行)と、国じゅうの大祓おおはらえが並んで詔される時代が続き、経の思想と日本古来の祓の営みが重なり合いました。
  • 奈良時代。国家の法会として薬師悔過やくしけか(薬師如来の前でおのれの罪を懺悔する行法)が営まれ、新薬師寺のように悔過の道場として建てられた寺も現れます。
  • 奈良〜平安。薬師寺金堂の薬師三尊、新薬師寺の薬師如来と十二神将、神護寺の薬師立像など、日本彫刻の頂点と呼ばれる薬師像が次々と造られました。
  • 毎月8日。薬師如来の縁日です。いまも各地の薬師堂で、8日の縁日の祈りが続いています

出典:https://byodoji.online/articles/bhaisajya 平等寺